映画見てるときの思考たれ流す

映画見ながら考えたことをたれ流します

映画「RRR」のストーリー構造(監督:S・S・ラージャマウリ)

はじめに

  • このブログはストーリーの構造や脚本・プロット等を分析して、「観客の私たちがなぜそのような感情になるか?」を考えようとするものです。ストーリー全体の構造を分析するよりも、私が気になった部分のみ分析していることが多いです。
  • 一般的な映画レビューとは少し着目している点が違いますのでご了承ください。たとえば、撮影や音楽、演技にはあまり触れません。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。タイトルとは別の映画のネタバレに触れることもあります。

RRR_主人公の二人が急速に友情を深めても、観客が違和感を抱かない理由

  • 少年を救出した後 → 二人の主人公が仲良くなるハイライトシーンの連続カット → 王女とお近づきになり、パーティーに誘われる → 宮廷でのナートゥダンスシーンでさらに二人の主人公は親睦を深め、絆は最高潮になる → しかし、この後正体が判明し亀裂が入るという流れになる。
    • ここで、注目したいのは「二人の主人公が仲良くなるハイライトの連続カット」である。
    • つまり友情が芽生えるキッカケの橋のシーンと、友情がピークに高まることを示すナートゥダンスシーンの両端のポイントだけ押さえその中間部分は連続カットで一気に省略している
    • https://www.youtube.com/watch?v=k157GjJHvK4 このシーン
  • 多くの物語時間を省略し、 一気に2人の距離を縮めたのにもかかわらず、そこに観客は違和感を持たなかったのはなぜかを考えたい。「関係性が深まるのが早すぎない?」と感じなかったのはなぜか?
  • 🔶 それは2人があまりに良い人物であることを観客は知っているから。特にビームは観客から好印象をもたれている。なのでその二人が友達になることに何の違和感もない。キャラクターの感情や行動に説得力がなくても観客と同じであれば違和感は生じにくい
  • 🔶 少年を救出する時、あれほど離れた距離であれほど大勢の人がいた中にもかかわらず、この二人は何かで繋がっているかのように、ジェスチャーだけで完全な意思の疎通を見せた。親友になるべくしてなったという感覚が観客にはあるので、過程を飛ばすことができる。
  • 🔶 観客は映画の宣伝を見ておそらく対立するだろうなということがだいたい分かっているから、一旦仲良くなってもその後に対立する予兆があるので納得できるのかもしれない
  • 🔶 だからといって二人の仲があまりにも深まりすぎて、「自分の使命よりも俺らの友情の方が大事」「 お前の為なら俺は使命を忘れて死ねる」というほど、極端にすると違和感が出てしまうが、そこまではしない 。この後の展開で、二人とも「やはり友情よりもお互いの使命をマットすることを選ぶ」という展開になるのがポイント。
    • つまり具体的には動物とともに、乗り込んだ主人公がもう少しで妹を奪還できるというところ、もう一人の主人公(ラーマ)がそれを一旦阻もうとする。しかしここで俺らの友情の方が使命より大事だと言って、ラーマが娘の救出に協力してしまっていたら、観客は違和感を抱いていたと思う。(でも 普通の映画だとそういう展開に乗ってクライマックスになってもおかしくないなんだけど)
    • いや君たちの友情はすごいものだけど、そこまで自分の使命を捨ててまで友情を優先するとご都合主義だろと感じていただろう。今までのシーンでは鉄の意志を持って、絶対に諦めない心を持っていたのに急に自分の使命を捨てる薄っぺらいキャラクターに感じてしまっていたはず。このようなご都合主義が見られないバランスを取っていたのもうまい。

RRR_なぜMCU作品とは違って大人こそ興奮するのか?

  • MCU作品は 子供や若い年齢層の人が特に興奮しているが、大人は少し冷めている印象がある。いや面白いし、うけるんだと思うけど、「今の僕の年齢とか大人になった精神状態で見ると、生涯ベストに入るような感動は得られない」みたいな批評がよくされる。 しかし本作はまさに大人にこそはまっている。多くの大人が年間ベスト、もしくは生涯ベスト級に感動している。MCU作品と本作の違いは何か?MCU作品は わかりやすく例として挙げただけで、違いを探りたいのは、MCUに代表されるようなスーパーヒーローものである。
  • ざっくりとした分類
  • 思うに、 大人になると、変身スーツをまとったり、スーパーパワーを持っているみたいな話には食指が動かなくなるのかもしれない。それよりも自分の肉体で敵に勝つと言うシンプルさしか受け入れられなくなっている。 なぜなら、現実の世界にはスーパーパワーや、変身すると言う解決策は無いからだ。 人生をいろいろ経験すると、たとえフィクションだとしても、それらの解決策があまりに馬鹿げて見えてしまうのかもしれない。
    • だから、 スーパーパワーを受け入れることができない。しかし自分が子供の頃に熱狂したものであればかろうじて受け入れられる 。シンウルトラマンとか、シン仮面ライダーを 見てキャッキャしているのは比較的大人ばかりであると思う。子供はほとんど反応していない。子供にとっては、今の過剰な装飾が施されたヒーローこそヒーローであり、シンウルトラマンは 現代のヒーローとしては少し地味すぎるのだろう。華がない。 一方大人は、自分たちが子供の頃好きだったもので、青春を感じ、ノスタルジックな気持ちになれるから、これらの映画を熱狂して見れるのであって、子供の頃と全くつながりのない新種のスーパーヒーローは受け入れることができないのだろう。
    • この点、 ミッション・インポッシブルやジェームズ・ボンド系の作品は、テクノロジーを使った最新武器みたいなものが出てくるが、基本的には自分の肉体で戦う、主人公の肉体が強靭だからこそ戦いに勝っているのである。 つまり生まれつきの スーパーパワーや、このスーツを着ると超人的な力を使えるようになる、みたいな設定が大人にとってはあまりに非現実的であるのだ。 大人は長年生きてきてすでに自分がスーパーパワーを持つギフテッドの存在ではないことを理解している。残された道は、ジェームズボンドのように もともとある自分の肉体を磨きあげると言う事しかできない。これだけが大人にとって非常にリアルな解決策だからこそ、彼らの心に響くのだろう。
    • ダークナイトを 中間的な作品として挙げたのは、ミッション・インポッシブルやジェームズボンドよりも、テクノロジーや機械を使った割合が多いからである。それにパッケージとしてもDCコミックス原作なので、 やはり子供向けの印象が強いが、MCU系よりは現実的な肉体戦の割合が多いので、中間とした。「ヒーロー誕生」拍手喝采的な輝かしいテーマではなくて、「自分が悪党として汚名を背負いながら街を救う」と言う皮肉なテーマを使っており、テーマ的には大人向けである。

RRR_何も知らないビームよりも、すべての事情を知っているラーマに観客は感情移入する

  • すべての事情を知っているキャラクターと知らないキャラクターがいると、 観客は事情を知っている人物に感情移入しやすい
  • 本作で言えば、ビームはラーマの偉大な志を知らない。 しかし観客は、その詳細は知らないが、ラーマは何らかの大きな目的がありイギリスの警察として働いており、 イギリス側に付いているわけではないことに気づいている。
  • その 状況で、ビームとラーマは王宮で対決する。ビームは兄貴のように慕っていたラーマが自分を逮捕しようとすることにショックを受け、動揺する。 この時、観客はどちらに感情移入しているだろうか?確かに兄貴に裏切られたということを思うと、ビームはかわいそうだなぁと感じる。しかし、彼はあまりにも無知すぎる。 ラーマは全てを知った上で、ビームを捕まえることを選んだのである。彼の葛藤の複雑さに比べたら、ビームはまだ葛藤が甘い気がする。観客としては あまりにも複雑な状況に置かれた、ラーマの心境を思いやり、彼に共感するのではないか。
  • この映画を 以下のような点でもラーマをビームよりも主人公として強調している。 物語の冒頭で少女がさらわれたシーケンスの後、最初に登場するのはビームではなくラーマである。彼が地方の警察署でインド人にひるまず容疑者を逮捕するシーケンスが描写される。 別の点で言うと、ビームがイギリスの女性からパーティーに誘われた際のダンスパートで、誰が最後まで踊り続けられるかと言う勝負があったが、そこでビームの意中の イギリス人女性がビームを応援している様子がラーマ目線のPOVで表現され、 ラーマは弟分のことを思い、わざとダンスに負けるふりをする。この例も、ラーマの方が常に情報量が多いことを示している。