映画見てるときの思考たれ流す

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映画「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」のストーリー構造(監督: ジェームズ・ガン)

  • 「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」において、ストーリー構造が観客にどう作用しているのかを分析したいと思います。
  • ストーリー全体の構造を分析するよりも、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。タイトルとは別の映画のネタバレに触れることもあります。

恐怖という感情が欠落したキャラクターを視点にすると、観客に恐怖は伝わらない

  • 演出:観客に特定の感情を体験させるのに最も適切な視点
  • スーサイド・スクワッドとは「自殺部隊」という意味であり、重犯罪者を集めた使い捨ての部隊という意味である。よって、いかに危険で恐ろしい任務かを観客に伝える必要がある。簡単な任務に見えては、意味がないのだ。
  • しかし、 百戦錬磨の主人公たちには、恐怖と言う感情が存在しない。冒頭から彼らの視点で描いてしまうと、「それほど危険じゃないのでは?」という印象を観客は抱く
    • 実際、ラットキャッチャーが死んでしまうプロットもあったと監督はいっており、誰でも死ぬ可能性があるほど危険な任務であり、それを観客にわかってもらう必要があった。
  • この問題を克服するために制作陣が取ったのは、「(実は)それほど強くなく恐怖心を持つ人間」を視点に設定することである。それがオープニングの金髪の囚人である。 彼は最初のシーンからいかにも強そうな人間に見える。しかし、彼と一緒に派遣される仲間がヘリで任務に向かっているところを見るとどうも馬鹿っぽく、どこか頼りなく観客は感じる。その予感は的中する。 島に上陸した彼らは次々に殺されてしまう。その光景を見て金髪の主人は恐怖を感じ、子供のように叫び声をあげて逃げ出してしまう。この視点の操作により、この任務がいかに危険であるかを観客に伝えているのだ。仲間の中にはハーレークインもいたが、もし彼女の視点で描かれていたとしたら、観客は全く危険度を感じなかっただろう。彼女は真に強く、恐怖や怯えという感情が欠落したキャラクターなのだ。
    • 観客にある感情を抱かせたいのなら、その感情を一番表現できるキャラクターの視点で描写すべきなのだ。決して、その感情が欠落したキャラクターを視点に設定してはいけない。
    • しかもOP早々ミッションに派遣されるシーンを見ることで、ド派手な戦闘シーンが見れて、ワクワク感が高まるという効果もある。(結局メンバーは殺され、この期待は裏切られるが。)OPを主人公のメンバー集めのシーンから始めるより、はるかにワクワク感が強い。しかも、最初の部隊が殺されることで、主人公の第二部隊がどれだけ強いかを示す比較対象にもなる。
  • 同じ作劇方法の例)死霊館_恐怖を感じない霊能者に視点を設定すると観客も怖くない

Inciting_Event

  • Inciting_Eventリスト
  • 主人公の弱点は「自分は暗殺者としてしか生きられない」という主人公の精神的な束縛であり、この束縛によって、娘に父親として振る舞うことができない、という状況から物語は始まる。そんななか、娘が逮捕されてしまい、このままだと悪質な刑務所に入れられるという危機に直面する。その危機を解決するために、スクワッドに入るよう政府からの提案を受ける(この提案がInciting Event)
  • この時点の主人公の性格はノワールの主人公に近い気がする。ノワール映画#^noirSquadを参照。
  • Inciting Eventの条件をすべて満たす良いInciting Eventが設定されている
    • 1 sudden oppotunity(Normal Worldで生きる主人公のもとに突然やってくる):突然娘が捕まる
    • 2refusal (主人公による拒否):冒頭から主人公はスクワッド入隊を拒否しているので、当然今回も拒否する。「自分は暗殺者である」というオールドテーゼを消し去りたい主人公は暗殺任務につくことを拒否している。
    • 3reluctant agreement(消極的な合意):しかし、娘が人質となり対応せざるを得なくなる。

ラットキャッチャーは主人公の「内的な欲望」と「弱点」が融合した存在である

  • ラットキャッチャーのネズミは主人公に弱点を想起させる
    • 主人公は、幼い頃から暗殺の方法について父親から教育を受けており、ヘマをすると、狭い木箱の中に閉じ込められ、中には飢えたネズミがたくさんいた、というエピソードをかたる。このことから、ネズミは父親との辛い過去のシンボルであり、「自分は暗殺者としてしか生きられない」という主人公の精神的な束縛を示している(この束縛によって、娘に父親として振る舞うことができない)。
  • ラットキャッチャー自身は主人公に内的な欲望(娘との関係修復)を想起させる
    • 主人公は娘と良い親子関係を築きたいと内心では思っている。しかし、 彼は自分の父親に暗殺者として育てられ、それ以外の生き方を知らない。他人と適切な関係性を築く方法というのを知らない。この弱点が主人公の欲望を邪魔しており、娘と対立する姿勢を取らせている。同時に主人公は暗殺者としての人生をやめようと思い、これまで政府の人間からミッションについて誘われたが、全て断り、トイレ掃除をしている。つまり、「暗殺者を卒業し」、「娘の父親になる」のが内的な欲望である

主人公の性格を冷静に考えると、ラットキャッチャーにすぐに感情移入するのはおかしく思えるが鑑賞中は違和感がない

  • キャラクターの感情や行動に説得力がなくても観客と同じであれば違和感は生じにくいの例
  • 主人公は終盤までほとんどチームのメンバーに感情移入していない(信頼関係を構築しない)が、例外的にラットキャッチャーには感情移入している。 人とのコミニケーションを拒絶する主人公が感情移入するには両者の間にかなりの濃厚なコミニケーションが必要だと思うが、本作ではラットキャッチャーの父親とのエピソードのみで主人公は彼女に感情移入することになる。主人公の性格を考えるとこんなに簡単に感情移入するのはおかしいと観客は思う可能性もあったが、本作ではその疑念は抱かなかった。それは観客自体がラットキャッチャーに感情移入していたからかもしれない。観客はラットキャッチャーのことを父親を愛する素敵な少女として好感を抱くので、主人公が同じように感情移入しても違和感を感じにくい。よくよく主人公の性質を考えるとおかしい感情移入であっても上映中は気づかない。

観客に真剣に受け取ってほしいなら詳細を語り、コメディとして笑ってほしいなら詳細を省く

  • 観客に真剣に受け取ってほしいなら詳細を語り_コメディとして笑ってほしいなら詳細を省くの一例
  • ピースメーカーが 平和のためにすべての人を殺してもいいと思っている理由は明かされない。政府側の女性リーダーが何のために非人道的実験をし、その隠蔽に躍起になっているのかもわからない。もし彼らの切実な動機や過去が明かされれば、観客は彼らに同情したかもしれないが、今作では情報を開示せず、勧善懲悪的スタイルを取っている。これにより、ピースメーカーが主人公に撃たれることでカタルシスを感じ、女性リーダーが同僚にバットで殴られて失神しても「よくやった!」と笑えるのだ。
  • 主人公はネズミ嫌いである。このネズミのエピソードは何度か出てくるが、注目したいのは最初主人公のネズミ嫌いは仲間に笑われていたということ。 観客も屈強な暗殺者である主人公がなぜ小さなネズミにそんなに怖がるのかと、そのギャップに笑った。しかし、その原因となる過去の父とのエピソードが詳細に語られてからは、笑えなくなった。 つまり主人公のトラウマを理解すると、観客は もはや笑うことができず、乗り越えるべき過去として主人公が成長出来るように応援するようになる。

最後の啓示の直前に物語のプレッシャーはゼロになるが、それでも主人公はオールドテーゼに戻ることを自分の意志で拒否する

  • 物語は最後に主人公がオールドテーゼに戻れるという皮肉なチャンスを与えるリストの一例
  • ヒトデ怪物が暴れまわり目の前では一般市民が殺されている状況で、アメリカの不都合な研究データは消したため、任務は完了、撤退を命じられる。これは目の前の市民を助けずに、「冷酷な暗殺者の自分」(オールドテーゼ)へと戻るよう物語がそそのかしている。しかし、主人公はその命令を拒否する。たとえ、体内に埋め込まれた起爆装置を発動するわよ、と脅されても、自分の意思で拒否する

『スティルウォーター』と非常に近いプロット

  • スティルウォーターとかなり軌道が近い。特に2/3時点くらいまではほぼ同じ。以下、スーサイドとスティルウォーターについて比較してみる。
  • 主人公は父親として娘と良い関係が築けていない。
    • スーサイド:面会室で「Fワード」で罵り合う場面が象徴的。
    • スティルウォーター:娘の育ての親はおばあちゃんであり、育児にはほとんど関わっていなかった。娘の手紙にも「父はあのとおりで信用できません」という言葉が書かれている。
  • 娘を救うことを決意する。
    • スーサイド:政府高官のウォラーに娘を人質に取られ、娘を救うため極秘ミッションにリーダーとして参加。
    • スティルウォーター:ルパルク弁護士が協力してくれないため、娘の無実を証明するため独自で調査に乗り出す。
  • その過程で少女と出会う。彼女は主人公に娘の存在を思い起こさせる。
    • スーサイド:チームメンバーとしてラットキャッチャー2と出会う。
    • スティルウォーター:ホテルの隣の部屋に宿泊していた少女マヤと出会う。
  • 両作品とも少女には父親がいない。
    • スーサイド:ラットキャッチャーの父は亡くなっている
    • スティルウォーター:少女の両親は離婚していて、母親と暮らしています。最近は会っていないとも語られる。
  • 次第に少女と良い関係を築いていく。まるで父親のような関係性。
    • スーサイド:車内でそれぞれの過去を明かし「生きて帰す」ことをお互いに誓い合う
    • スティルウォーター:少女の面倒を見るようになったり、一緒に家を修理したりします。
  • そして娘を救うための最後の戦いに向かっていくのだが、ここから両作品に違いが現れる。
    • スーサイド:ラットキャッチャー2やチームの仲間と協力してヒトデ型モンスターとの戦いに挑む。この戦いで少女の存在は主人公の目標(モンスターを倒すこと、娘を開放すること)を達成するための力になっている。ラットキャッチャー2は劣勢だった戦況をひっくり返す。ラストシーン、帰還する飛行機の中で主人公はネズミを恐る恐る撫でる。これによりねずみを克服しました。これが何を意味するか、ネズミは暗殺者として育てられた少年時代の象徴であり、この暗殺者としての自己認識により主人公は他人と良い関係を築くことができないと、自身を縛り付けていました。映画には直接描写されていませんが、この呪縛から解かれたということは、主人公はこの後娘と親子の関係性を築くことができるはずだ、というポジティブな期待を抱かせ、物語は終わります。
    • スティルウォーター:少女マヤやその母親ヴィルジニーの支えのおかげで主人公は異国かつ危険な街で捜査を進めていくことができていた。しかし、主人公は犯人を逃してしまい、娘に嘘を付いていたこともバレてしまう。そして物語は一気に4ヶ月飛びます。ここからヴィルジニーとマヤのいる環境は主人公の目標達成を助けると言うより、目標達成から遠ざけるような甘い誘惑としても機能しはじめる。マヤは主人公にとても懐き、ヴィルジニーともどんどん距離が縮まっていく。少女たちの存在をポジティブな力に変えるのではなく、主人公は依存してしまう。依存してしまった主人公には2つの選択のどちらかを選ばなくはならない。このまま当初の目標を諦めて目の前の幸せを掴むか、もう一度当初の目標を思い出し実現するために、目の前の幸せを放棄するか。本作では後者を選んだが、娘の冤罪を晴らすことができてよかったとスッキリとしたハッピーエンドで終わるのではなく、実は娘が依頼したことが発端となっていたという非常にグレーな終わり方をします。
  • (補足)この疑似家族観(親と娘の擬似的関係)はウィンドリバー_映画にも共通する