映画見てるときの思考たれ流す

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映画「死霊館エンフィールド事件」のストーリー構造(監督:ジェームズ・ワン)

恐怖を感じない霊能者に視点を設定すると観客も怖くない

  • 演出:観客に特定の感情を体験させるのに最も適切な視点
  • 観客にある感情を抱かせたいのなら、その感情を一番表現できるキャラクターの視点で描写すべきなのだ。決して、その感情が欠落したキャラクターを視点に設定してはいけない。
  • ホラーは「視点に設定された人」が恐怖をもっとも強く感じる人でなければ、その恐怖が観客には伝わらないのだ。だからこそ、ホラーのシリーズモノというのは、恐怖に陥れる存在(フレディーや貞子など)はシリーズに共通しているが、怖がる人間は毎回違う人物に設定される 。 これは一度恐怖を経験した人間よりも、初めて経験する人間の方がその感情を強く抱くからである。
  • 死霊館シリーズでは、恐怖を感じにくい霊能者のウォーレン夫妻を共通したキャラクターにする。 しかし、霊能者の彼らを視点に設定してしまうと、霊能者が怖がらないのと同様、観客も怖くなくなってしまう。 上記原則に反するのだ。霊に対処するのが日常になっている霊能者を主人公にすると、彼らがいかに霊現象を解決するかというアクション映画になってしまい、ホラーではなくなってしまう。
  • 「恐怖を感じにくい霊能者」が主人公の死霊館シリーズでも、 観客に恐怖を感じてもらうために制作陣が取った対応は、呪われてしまう被害者の一般家族をあたかも主人公のように扱い、彼らに視点を設定するということだ。この視点は冒頭から1時間近く続き、恐怖を最も表現出来る彼らの視点で物語を体験することで、観客も恐怖を存分に感じることができる。
  • 参考三宅隆太さんポッドキャストhttps://open.spotify.com/episode/6i91hcuyyoGxW6CMnxzDEf?si=a0239bfab7e14131
  • 同じ作劇方法の例)ザ・スーサイド・スクワッド_恐怖という感情が欠落したキャラクターを視点にすると、観客に恐怖は伝わらない

霊能者夫婦が被害者を助ける動機を設定する

  • 霊能者夫婦が被害者を助ける動機を設定しないと都合の良い展開となってしまう。レスキュー系の公務員系の仕事であれば、それは仕事だから、特に動機は必要ない。依頼されたらやらなければならないのである。
  • しかし本作の霊能者は主人公たちに断わる権利があるのだ。特に本作では、主人公の霊能者の妻はこれ以上悪魔払いをすることをやめようと決断している。それは娘に危険が迫っており、夫が殺される予知夢を見たからである。だから妻はもう悪魔祓いの依頼は受けないと夫に約束させている。 それでも夫妻に悪魔祓いをさせるというストーリーにするのなら、その助ける動機をきちんと設定する必要がある。本作ではその動機として、「共感や同情」と「被害者家族との絆」を設定する。
  • 夫は被害者家族を見捨てることはできないと、 調査だけをして危険であれば教会に引き渡し、自分たちが悪魔払いをする事はないと妻に誓って調査に向かう。そこで、妻は被害者の少女に感情移入する。そして、大切な存在を失いたくないという被害者家族の気持ちに共感する。
  • また、夫は 被害者家族に元気になってもらうために、Elvis Presleyを弾き語りで演奏する。そして彼の弾き語りを聴きながら被害者家族はみんなで歌い、かつてのような一家団欒を一時的に取り戻す(いわゆる「焚き火を囲み結束を深めるシーン」)。ここで被害者家族と夫妻に絆が生まれる。
  • 妻は依頼は受けないという判断を覆し、助けてあげたいと夫に伝える。このようにうまく被害者家族を助ける動機が設定されている。

なぜ悪魔祓いを拒んでいた主人公夫妻が短い時間しか接していない被害者家族のために翻意しても観客は違和感を感じないのか

  • 上記の通り、 主人公夫妻は自分たちにも悪魔払いをすることの危険性が及んでいるため、これ以上の悪魔払いの実行は避けようと約束する。この約束にも関わらず、主人公夫妻は 被害者家族とのごく短いエピソードでこの約束を翻して、悪魔祓いをすることに決める。冷静に考えると主人公夫妻の行動や一貫性はおかしいのだが、なぜ観客は疑問を持たないで済むのか?
  • それはキャラクターの感情や行動に説得力がなくても観客と同じであれば違和感は生じにくいという法則を使っているからだと思う。つまり、被害者の少女とその家族が非常に危険であり、悪魔に対して無力であり、このままではまずいことになるという状況を観客は目撃している。そして観客は彼らが一刻も早く救われるように祈っているのだ。そこで主人公夫妻が登場し、主人公夫妻があまりに簡単に被害者家族に感情移入するのが客観的に考えるとおかしかったとしても、観客は自分たちの「助けたい」という気持ちと同様に、夫妻が「助けたい」と感じることに違和感が生まれないのだ。