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映画『天才作家の妻 40年目の真実』のストーリー構造(監督:ビョルン・ルンゲ)

  • 『天才作家の妻 40年目の真実』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

『天才作家の妻 40年目の真実』という邦題で映画の本質を観客に誤認させてしまった。これは謎解きの映画ではないのだ。

  • 原題は「The wife」であるのに対して、邦題は『天才作家の妻 40年目の真実』である。このタイトルが映画の本質とは違うところに、観客の期待を抱かせてしまったように思う。
  • この邦題により(特に「真実」という言葉により)観客の意識は「天才作家の夫婦にはとんでもない秘密が隠されている」ということに向かい、その秘密を探ることに焦点を当ててしまう。 もっと具体的に言えば、通常のミステリー作品のように彼ら夫婦の間には秘密があり、観客は2度もしくは3度映画に欺かれながら、終盤に彼らが隠している秘密に到達し満足する、と言う予測をさせてしまうだろう
  • しかし、この映画が描こうとしているのは、40年間影の存在として夫のゴーストライターとして執筆を続けてきた女性がどのような思いを抱えてきたか、どのように報われない日々と対峙してきたかであり、その「秘密(情報)自体」が核心ではないのだ(The wife その女性の生き様に焦点があるのだ)。ここで観客と作品の間にギャップが生じてしまう。観客が望んでいるものが提供できないという自体に陥ってしまった。天才作家の妻 40年目の真実』というからには、観客はあっと驚く秘密があることをどうしても期待してしまう。
  • 1時間40分という映画全体のほぼ中間45分頃に、その秘密がほとんどの観客が察することができるかたちで明かされる(勘のいい人なら、この中間地点に至る前になんとなく気づくこともできただろう。)。「妻がゴーストライター」だったのだ。 観客は夫婦に隠された秘密について期待しており、ほとんど映画の中間地点でそれが明かされるとは思っていない。なのに明かされてしまう。「え、さすがにこんな単純な秘密ではないよね?この後で事実が二転三転するんだよね?」と思って、映画の続きを見ていくと、これ以上の秘密は出てこない。これ以降の映画の内容は「隠された事実をさらに解き明かすこと」ではなく、「ゴーストライターであることに妻がどうやって向き合ってきたか、そしてこれからどうするか」という話になる。いかに実際の映画の後半部分の内容が優れていたとしても、観客はそんな内容を欲していないのである。

ゴーストライターであることが観客にばれないようにキャラクターが不自然に行動するため、観客はその作為に気づいて冷めてしまう

  • 観客にとっては最大のひねり(暴露)である「妻がゴーストライターである」という事実は、もちろんメインのキャラクターである妻と夫の両方が認識している。そして観客はこの夫婦が過ごす様子をずっと見ているのに、彼らはまさか観客にばれないように意識しているのか、その情報はずっと伏せられたままなのである。この違和感はすさまじい。観客を騙すためだけにキャラクターが行動し、映画が作られているような気がしてしまう。
    • しかもこの映画はその情報の不自然な隠蔽を上映時間の後半まで続けるのだ。この違和感ったらない。
    • もし 主人公が息子であれば、もっと自然な形で情報暴露することができただろう。観客は息子と同じ視点で 夫婦の秘密を知らない状態で、彼らに接していく。しかし父親が執筆している部屋に入れてもらえない。その部屋に入ることが許可されているのは母親だけである。そして父親はキャラクターの名前を覚えていない。これらのことから違和感を覚え出す。そして息子は夫婦の秘密を探ろうとして、最大の暴露が明かされる。このような構造であれば自然である。
    • しかし、本作は妻がメインの視点となり、夫ももちろん認識しているので、この情報を夫婦の間で隠す必要はないのに、ひたすら隠し続けるのである。それはキャラクターたちが観客にばれないように、観客の目線を意識しているからである。 観客は自分たちが座っている映画館の現実世界と物語の世界は接点がなく、干渉できないという前提で映画を見ている。しかし、映画やキャラクターの方は観客をもろに意識して、観客に対して情報を隠そうとしているのである。
    • 本作と同じで妻の視点だが、情報を隠すことを自然に行うにはどうすればよかったか? 妻に視点を置きつつ、ゴーストライターの件を知らない息子や娘を常に画面に登場させておけば、夫婦が情報を隠すことについて違和感は生じなかっただろう(息子の前で言及出来ないから)。でも本作は夫婦が二人きりの場面でも白々しく、さも知らないかのように、ゴーストライターの件についてはひた隠しにするのだ。
  • 映画自体が観客を強く意識しすぎて、観客に情報を伏せるためだけに映画全体が、そしてキャラクターが動いているように感じてしまう。キャラクターがこちら側(観客)の視点に気づいて、情報をごまかしているように感じてしまうのだ。

主人公の挑戦は敵とは全く関係のない偶発的な出来事によって何度も遮られる

  • 本作では敵が邪魔していると言うより、物語の構造や偶発的な出来事、それを運命や人生が彼女の邪魔をしていると言ってしまえば大それたものに聞こえるが、敵ではないものに邪魔され続けているという感覚がある。敵とは全く関係のないところから、急に邪魔されて頓挫してしまう。
    • 例えば、主人公である妻が問題と向き合おうとすると、拗ねる息子の対応に追われたり、フラッシュバックの回想が入ったり、夫とせっかく大喧嘩していたのに孫が生まれたという連絡が入ったり、最後は夫が発作を起こして中断したり、するのだ。そのたびに、主人公と、「彼女の目を通して物語を見ている観客」は目標に対する挑戦の歩みを一回止めなければいけなくなってしまう。これは物語の勢いを著しく損なってしまう。
  • 同じ失敗をしている他の映画の例は主人公の挑戦を邪魔するのが敵ではなく偶発的な出来事になってしまっている映画リストを参照。
  • (補足)主人公が 何度も挫折するという構造自体はむしろいい物語の特徴であるが、その挫折をもたらすのが敵ではなく偶発的な事件であると言うのが好ましくない。

フラッシュバックが多用される編集により、問題に向き合う主人公の歩みが鈍化して感じられる

  • 大きなフラッシュバックが3回入る。妻と夫の学生と教授としての出会ったとき、キスして不倫関係になったとき、初めてのゴーストライターをしてとき。しかし、これらのフラッシュバックシーンは、所詮「過去の妻の情報」でしかない。
  • もちろん主人公の過去を知ることも観客にとっては重要なのだが、もっとも観客が知りたくて、感情移入のために必要なのは「"今"の主人公がどのように考えているか、どのように葛藤しているか、何をしようとしているか」ということなのだ。しかし、そのような情報を提供する貴重な時間をフラッシュバックが奪ってしまう。過去の情報はたしかに今の主人公を形成しているが、どれだけフラッシュバックにより過去の情報を与えても、物語現在の主人公の歩みを進めることにはならないのだ 。よって主人公が目標に対して前進しているという感覚は観客には芽生えない。