映画見てるときの思考たれ流す

映画見ながら考えたことをたれ流します

ディザスター映画のストーリー構造

ディザスター映画の定義

ディザスター映画の王道の視点設定

  • ディザスターの視点というのは大きく3パターンある。主に誰に視点を設定するかで物語の軌道がある程度決まってくる。

視点設定(概要)

対処できる「個人」 翻弄される「集団」 中間
メインの視点 強力な個人 無力な集団の中の複数の人物(群像劇) 集団の中の複数の人物に視点があるが、メインの個人がいる
視点の人物の能力 根本的に解決できる能力や権限を持つ 「個人」としては解決能力を持たない。集団が力を合わせる必要がある。 中間
視点の人物がアクセスできる情報量 大局的(俯瞰的) 局所的(限定的) 局所的(限定的)
被害の範囲 全国 全国 or 局地 全国 or 局地
最終的な物語の着地 ディザスターの根本的な解決 局所的な解決 局所的な解決
映画の印象(トーン、楽しみどころ) ヒーロー(英雄)系 恐怖、パニック、最後に局所的に解決し安堵 恐怖&ヒーロー

パターン1. ディザスターに「根本的に」対処できる力や権限を持つ人物「一人」に視点を設定する

  • いわゆるヒーロー(英雄)系の映画となる。政府や軍の人間等、ディザスターを大局的な視点で見ることができ、かつ、根本的に解決できる能力をもつ人物に視点を与える。
    • 彼は何が起こっているかという大局的な情報を把握できる立場にある
    • 最終的には実際に彼の力で大規模な災害を解決するところに観客はカタルシスを感じる。
  • 作品例)インディペンデンス・デイ、日本沈没アルマゲドン
  • (補足)対処できる人物と同時に、無力な市井の人物にも視点を設定することがあるが、その場合もこのパターンと同じような特徴を持つ。いずれにしても「無力な個人」だけの視点であることはない。

パターン2. 今まさにディザスターに巻き込まれている「集団」に視点を設定する

  • 例)新感染 ファイナル・エクスプレス乗り物パニック映画はこのパターンのサブジャンルである。
  • ディザスターの状況下にいる特定の集団に視点を与え、それぞれのキャラクターの視点から描かれる(群像劇やグランドホテル形式とも呼ばれる)。市井の人物である。
  • 彼ら個人としてはディザスターに対処できる力を全く持ち合わせていないため、序盤は特にパニックに陥り映画のトーンは恐怖に支配される。そして中盤以降、集団が力を合わせて、なんとか事態を収めようとする。
  • 彼らの視点からは何が起こっているかという情報をほとんど把握できず、多くの時間を翻弄されて過ごす。(限定的な情報
  • 個人の能力ではディザスターに対抗できないが、集団の力で立ち向かおうとし、局地的には解決に至る場合がある。
    • ジョーズ」のTier List(ティアリスト)のように協力することで力を増していく。
    • |300

パターン3. 今まさにディザスターに巻き込まれている「集団」の中の最も対処する力を持つ人物にメインの視点を設定する

  • これは、上記1と2の視点設定の中間的な設定。「集団」の中に、圧倒的ではないがいくらか対処する力を持つ人物がいて、彼にメインの視点を設定する。この場合は、巻き込まれている集団が描かれつつも、視点は対処できる人物を中心に設定される
  • 例)列車パニックの運転手や、飛行機パニックの操縦士等、アイアムアヒーローチェルノブイリ_映画ホテルムンバイ_映画

ディザスター映画の具体例

映画『ホテル・ムンバイ』のストーリー構造レビュー

  • 『ホテル・ムンバイ』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

危険度や賭け金が右肩上がりに跳ね上がらない

  • 賭け金や危険度が一定で高まっていかない映画リストの例
  • 実話をベースにしているし、ドキュメンタリー映像も所々に挿入されている。本来このような形にするとものすごくリアルだからこその緊迫感みたいなものが出るはずだけど、それほど感じられなかった。正直に言ってしまえば、危険度というものがずっと一定で跳ね上がっていかないので、マンネリ感があった。事件が発生してからずっと同じくらいの危険度になってしまっており、物事は動いているんだけど、ただ動いているだけ。単なる出来事の羅列のような感じになってしまっていた気がする。危険度とか賭け金が跳ね上がることがなく、物語としては面白くない。
    • 正直言うとバックパッカーカップルが一番最初に襲われたところが一番ドキドキしたこれって物語としては冒頭が一番面白かったということなので、失敗だよね。 なぜなら日常から一転するので、全体を通して最も差分(変化)が大きかったのがこのシーンだから 。これ以降の物語は同じくらいの危険度を保っているんだけど、危険度を保っているということは「変化」はしていないので、観客の感情も上下していかなかった。
  • こういう風な欠点が生じてしまうのであればフィクションで良かったかなと思う。実話をきちんと歴史として残す映像として残すことに意味があると言われたらそれは賛成だけど。

テロリストは全員イヤホンをしているので分かりやすい

  • 視覚的な特徴をキャラクターに持たせることで、観客がキャラクターを判別しやすくする
  • 街でテロが実行され、市民がホテルに逃げ込んでくる。そして逃げ込んできた市民の最後尾にテロリストが一緒に入ってくるのが観客にはわかる。なぜなら、彼らは冒頭からイヤホンをしているから。めっちゃこわかった。
    • 大勢いても、誰がテロリストか観客がすぐにわかるように、しかもアジア人の顔が判別しにくい欧州の人が見ても分かるように、イヤホンをしている人がテロリストだという外見上の工夫がある。観客の認知を意識した作りになっている。

その他

  • パターン3. 今まさにディザスターに巻き込まれている「集団」の中の最も対処する力を持つ人物にメインの視点を設定するの具体例かな
    • 主人公は最初から高潔で、勇気があり、ヒーローとしての資格を持っているように見える。とても欠点を持っているようには思えない。ヒーローがみんなのために命を張って解決するという流れ。ほとんどヒーローものに近い感じもする。
    • 正直、リアルじゃないと感じる。こんなに自分の命を投げ打って、理不尽な客もすべて神様として扱うことができる人なんているのだろうか?マザーテレサのようだ。
      • 病院に連れて行こうとしたり。イギリスの老婆のために、ターバンを取ろうとしたり。 まあ、これが真実なのかもしれんけど。
    • 実話なので、やっぱり物語としては脚本としては弱い気がする。感動はしなかった。

「人生はリハーサルできるのか?」を追求した番組が面白すぎる!!(リハーサル ネイサンのやりすぎ予行演習)

  • 『リハーサル ネイサンのやりすぎ予行演習』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

「人生をリハーサルなんてできるわけないじゃん」という視聴者の気持ちをきちんと分かって番組を作っている

  • 今u-nextでリハーサル(原題:The Rehearsal)というhbo製作のドキュメンタリーコメディを見ているんだけどこれがすごい。「人生の重要な出来事をリハーサルする」というコンセプトを聞いた時点の、まだ実際には視聴を始めていない時の自分の気持ちはこうだった。
    • (視聴前)そんなに簡単に人生をリハーサルして準備することなんてできるわけないだろう。もし何事もたくさん準備して練習して本番に臨むことが大事だみたいな説教臭い展開になるのだとしたら、この番組の視聴はすぐにやめようと考えていた。悩んでいる依頼者がリハーサルを何度も重ねることで本番大成功を収めましたみたいな、リアルの世界の複雑さを一切無視したきれいごとの番組なら、ドキュメンタリーのくせに、リハーサルすれば全てがうまくいくみたいなやらせ臭のする番組ならすぐに見るのをやめようと思っていた。そんなに人生は簡単なもんじゃない馬鹿にするなと。しかし完全に杞憂に終わった。
  • 以下、視聴後分かった、この番組の巧みさ。
  • 人生の重要な出来事に直面した一般人を募って、その出来事がうまくいくように何度もリハーサルをして臨むという大枠。そして最初の依頼者のもとにやってくるホストのネイサン。ホストは最初の依頼人と和やかに話をして、「ここまで僕たちの会話はなかなか弾んでいるよね?それには理由があるんだ」という。僕は今日の日のために何度もリハーサルを重ねたという。だからこそ君もこれから僕と一緒にリハーサルをすればきっとうまくいくだろうと提案する。
    • この時点で、どこかしら観客の心には、本当に人生をリハーサルすることなんてできるのか?という疑念が実はある。
    • この観客の疑念にきちんと制作側も気づいていることを示すため に、彼らはある仕掛けをする(展開を作る)。それは、ホストであるネイサンがいきなりリハーサルしたのに失敗するのだ。ホストはいまいち依頼者の心を開くことができなかった、リハーサルしたのに何がダメだったんだろう。つまりこの番組のすべての責任者であるホスト自体が、「人生をリハーサルする」スキルを伸ばしている最中であるということ。彼も本当にリハーサルがうまくいくか分からない。
    • ホストがこの番組を見ている私たち視聴者に、人生はリハーサルすれば何事もうまくいくという説教をするためではなく、まだリハーサルの効果というものが半信半疑である視聴者と一緒に、その効果を見極めていこうとするというホストの設定にしている==。ホストであるネイサンは私たちに何か教えようといてくれる教祖(教師)なのではなく、私たちと同じ立場である、私たちと同じようにこれからリハーサルの効果を検証し、どうにかそのスキルを伸ばそうと一緒に協力する、==私たちは同じ生徒なのだという関係性を、視聴者と築くことに成功している。つまり、視聴者の感覚としては、You and Me(私とあなた)という感じではなく、We(私とネイサンは同じである)という感覚でこの番組を見ている。
    • ホストであるネイサン自体も教師ではなく生徒であることを示すために、彼自身も試行錯誤しながらリハーサルをしていく過程を視聴者に見せていく。彼はリハーサルをすれば何事もうまくいくしリハーサルは簡単だと思っているわけではない。リハーサルをしようとすると相手のことがよくわからなかったり、どうすれば本番さながらの状況でリハーサルができるかを悪戦苦闘しながら徐々に改善していくという形をとるので、ホストである彼自体も生徒側である。
  • そしてホストであるネイサン自体がリハーサルをしていたにも関わらずいきなり小さな失敗を犯したことで、この後のエピソード(応募者たちの挑戦)がリハーサルにより本当にうまくいくかどうかが分からなくしたことも非常にうまい仕掛けである。
    • どうせ成功するんだろうと結果がわかっている状態で物語を見ても没入できない。失敗する可能性があるからこそ、大一番の勝負に挑む挑戦者たちを視聴者は応援しながら、この番組に没入することができる、そのような構造をうまく作っている。
    • 番組のホストであるネイサン自体が、第1話のオープニングでいきなり失敗したのだ。しかも挑戦者といい関係を築くという、比較的簡単な挑戦にホストが失敗した。ということはこれから挑戦者たちが挑む人生に大きな影響を与えるようなより難しい試練に向かうためにはより入念なリハーサルが必要であるということを示唆している。観客は物語のゴールの高さを実感する。
    • ホストであるネイサンは、最初の依頼者との出会いで私は学んだと語っている。「完璧だと思っていたリハーサルも、本番で少しヘンテコな椅子に座っただけでリハーサルの時の私の態度は堂々と振る舞っていたにもかかわらず、一瞬で間抜けに変化した。もっと念入りにリハーサルをしなければならない。私たちは決戦の場をこれまで以上に完全に再現したセットを作った。ウレタンの椅子が破けてスポンジが見えているところまで再現している。テーブルに置かれている調味料も全く同じ。」

「The Rehearsal」(リハーサル)という完璧なタイトル。番組の中心アクションを簡潔に1語で表現している

  • 「The Rehearsal」というタイトルはこの番組の本質を端的に表現することができている。実際番組の尺の95%は、本当にリハーサルというアクションをしている時間で構成される。わずか1単語の動詞で、番組を簡潔に表現し、なおかつ、その動詞が観客の興味をそそる、「リハーサルでどのように事件を解決するのか」という興味をそそるという点で非常に秀逸なタイトルと、動詞の選択だと思う。大岡ログライン「Aな主人公が、Bに出会い、Cする話」ではどんな行動をする話かを1つの動詞で表現すべし、とされているが、この番組はまさにそうなっている。C = リハーサル。
  • (うまく言えないけど)全ての物語に共通する本質とは「自分の人生を破壊するような事件に何度も挑戦すること」といってもいいだろう。そしてリハーサルという行為はまさにこの本質を表現することができるアクションのように思える。何度も何度もリハーサルし本番に向かっていく。「リハーサル」という一つの動詞の選択が、改めて完璧だと思う。リハーサル、と番組の核心を定義したことがこの番組の成功の要因だと思う。

1話_最後の展開は予想を裏切る良い展開だった

  • しかも第1話の展開は中盤まででも最高だったけど最後の展開は素晴らしかった。いくつか驚きの展開、予想もしていない展開が来た。
  • 🔷 それは依頼者が怒りっぽい友達に自分の秘密を打ち明けたところ、彼女は理解を示してくれた。話してくれて嬉しいわと言った。そして驚きなのはこの後の依頼者の行動である。彼はこれまでリハーサルした中で毎回、自分の秘密を打ち明けたらその話をできるだけ早くやめようとしていた、別の話に移ろうとした。しかし本番では彼はこれまで12年間語ったことのなかった自分の人生をたくさん打ち明け始めたのだ。
    • つまり、人生の重要な瞬間を成功させるために何度も何度もリハーサルを重ねて、全てを予定通りにすることがこの番組の目的だったのだが、最後の本番ではリハーサルを超えてしまうことができたのだ。目的は最後の瞬間の直前まで「計画通りにやること」だった。本番もリハーサル通り計画通りに実行できれば、それだけで満足だったはずだ。しかし、どれだけリハーサルを重ねてもやはり現実というのはわからないものだ。最後はリハーサルを超えることだってできるんだ、という観客の予測を外す素晴らしい展開が起きた。
    • 「リハーサルがいかに問題解決に有効であるか」だけでなく、「どれだけリハーサルを重ねても予測できない人生の複雑さや不確実性」という2つの(相反するような)主張を同時に描くことに成功しているこれは視聴者の願望にも合致しているように思う 。視聴者としてはもちろん人生の一大事に挑む挑戦者に成功してほしいという気持ちもある、つまりリハーサルの有効性が証明されて欲しいという気持ち。一方、人生はそんなに簡単じゃないよという気持ちも当然持っている。この観客の裏腹な気持ちを両方満たした素晴らしい第1話のエンディングだと思う。
  • 🔷 そしてもう一つ予想外だったのは、最後に依頼者がホストを責め立てるということ である。自分の秘密を打ち明け、しかもそれを友人に好意的に受け止めてもらえた状態で依頼者が帰宅する。そこに待っていたのがホスト。ホストが最高だったよと伝える。依頼者も喜んだ顔を見せる。しかしホストは1つ依頼者に言っておかなければならないことがある、と言い始めた。つまりこれは立場の逆転だ。依頼者が友人に秘密を打ち明けたのが反転し、最後にはホストが依頼者に秘密を打ち明けることになる。それは、実はクイズ大会の質問を全て知っていて君に気づかれないように会話の中に答えをそれとなく教えていたんだと打ち明ける。そして依頼者の反応が興味深かった。依頼者はホストに君は最低のことをしたクソ野郎だという。依頼者はクイズを趣味として、ある意味生きがいとしている。それをホストである君は侮辱したんだと、依頼者は怒った。最悪の気分になってしまったと。 おそらくホストは依頼者に打ち明けるというこの展開もリハーサルしていたと思う。つまり、第1話では依頼者だけでなく、依頼者とホストの2人がリハーサルをしていたということ。しかし、残酷な結果になってしまった。依頼者の挑戦はリハーサルの時以上に大成功を収めた一方、ホストの挑戦はある意味失敗に終わってしまったとも見れる。彼は1話冒頭の依頼者とのコミュニケーションを含めて2敗目を喫した。この複雑な現実も非常にリアルだなと思った。

映画『サウンド・オブ・メタル -聞こえるということ-』のストーリー構造(監督:ダリウス・マーダー)

  • サウンド・オブ・メタル -聞こえるということ-』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

テーマとシンボルが絡み合った物語

  • 非常にシンプルな物語展開だが、キャラクターやテーマシンボルというものは複雑に絡み合っている。
  • 私たち観客にとっては耳が聞こえなくなるという問題が最も大きな問題のように思うが、実はこれさえもシンボル であると脚本は考えているらしい。確かに大きな問題ではあるが別に聴覚でなくても良かったということ、マクガフィンにすぎないということ。というのも問題の本質というのは、「中毒(執着)」である
    • 主人公は昔麻薬中毒であり、今はそれを紛らわすために「ノイズ」に中毒になっているのだ。彼は静寂というものに耐えることができない。静寂に耐えようとすると麻薬の誘惑がすぐに襲ってくる。薬の誘惑を断ち切るために別の興奮剤である、ノイズで埋めているだけなのだ 。彼はメタルや彼女によって麻薬中毒者の人生から好転したわけではなく(生きがいを見つけたというわけではない)、別の中毒を見つけただけだったのだ。だからこそ主人公は、麻薬中毒になってボロボロになったように、今度はノイズ中毒により耳が聞こえなくなった。つまりこの物語の本質は、彼が中毒から離れない限り、人生を根本から好転させることはできないということだ。そして彼はそれに気づかず、メタルのある生活、音が聞こえる生活、彼女がそばにいる生活を再び求める。そして彼は人工内耳の埋め込みを行い、元の生活に戻ろうとしたところで、失敗する。そして、最後の最後に本質に気づく。ジョーが言ってたのはこれだったのか。静寂がなぜ大事なのか、なぜ自分に必要なのか。何かに依存し中毒になることをやめなければならないと物語の最後の最後で気づいた。失ったものは大きいが彼は彼の人生は好転していく可能性を秘めているという意味でハッピーエンドという捉え方もできる
  • 主人公がメタルや彼女を愛している様子は素晴らしいもの、良いものだと鑑賞中は思っていた。しかし実はメタルや彼女の存在こそが、主人公の中毒の対象であり、断たなければならないものだった。これはある意味、ミスリードである。 ^7xvvuj

メタルや聴覚というのは、主人公の中毒・執着を示すシンボルだった。主人公は物語の最後に自分の執着に気づき、聴覚を放棄することを決断する

  • 「メタル」、そして、「その音を聞くための聴覚」というのは主人公の成長やテーゼの変化を示すシンボルである。
    • 👉 パラサイトもサウンドオブメタルも構造的には似ていると思う。パラサイトでは金持ちになりたいという欲求のシンボルとして友達からもらった水石のオブジェがある。サウンドオブメタルでは主人公の中毒という性質を表すシンボルとして聴覚がある。そして両作品とも主人公は、水石と聴覚を必死に守ろうとする。どんな犠牲を払ってでも、手に入れようとする。彼らにとっては何よりも大切なものなのだ。しかし物語の展開を経るにつれ、主人公たちはそれを追い求めすぎて過剰になっていく。そして終盤、彼らはエスカレートしすぎて、大きなものを失う。パラサイトでは家族を失い、サウンドオブメタルではメタル音楽と彼女を失う。そして、彼らは自分たちの欲求が間違っていたことに気づく。あれほど欲していたシンボルを手放さなければならないことに気付く。啓示である。

# 彼女は主人公の「執着・中毒」のオールドテーゼに対して、「静寂・反執着」のアンチテーゼを体現するサブキャラクターである

  • 物語終盤、彼女と再会し、主人公は彼女の手首の傷が消えており、見た目も全然違うことに気づく。すっかり仲よくなって、父と彼女は一緒に歌っている。 カノジョの隣で演奏する人は自分ではなくなってしまった。つまりこれは彼女が主人公と離れている間に「静寂」を見つけたということである。今の彼女にはストレスがかかっていない。しかし、主人公が「これからアルバムを出してツアーにも回ろう」という話をすると、彼女はまた手首をかきむしり始める。彼女の中で不安が再び表面化してしまった。そこで主人公は気づく、お互いに愛しているかもしれないがこれは依存でありお互いが中毒なのだ。お互いから離れて、それぞれの静寂を見つけなければ、傷つけ合ってしまう。主人公はキャンピングカー、ドラムだけではなく、最後には彼女さえ手放さなければいけない、ことに気づく(啓示)。すべてを失うが、彼は彼にとって根本から変わることでもある(ある種のハッピーエンドである)。
  • その意味でジョーも「静寂・反執着」のアンチテーゼを体現するサブキャラクターである。彼は主人公の写し鏡なのだ。コインの裏表の関係にある存在である。ジョーも同じように昔、麻薬の中毒であり、パートナーを失った。今は静寂が本質であることを知っている。静寂を嫌って別のもので静寂を埋めてはいけないことを知っている。別の何かに依存し中毒になってはいけないことを知っている。正しい道を選べばジョーのように落ち着いた生活ができるが、何が正しいかは物語の終盤になるまで主人公は気づかない。 ^o2r6wo

蛇足のないスパッとした切れ味で物語を終える

  • この映画には起承転結の「結」の部分がないというレビューが時々あるがそうではないと思う。この映画は決して、物語がこの後どうなるか、あとの解釈は観客であるあなたたちに任せますというようなタイプの映画ではない。「結」とは何であるかを考えてみればわかる。物語の結びで求められるのは主人公が最後の決断をし、そして決断するだけでなくその決断を体現するということである。これが結びにあればいいのだ。そして本作で言えば、主人公はノイズの世界ではなく静寂の世界で生きることを決め、その決断を耳につけられている機械を外すというアクションで体現している。つまり本作はきちんと物語が結ばれて終わっていると言えるのだ。きちんと決断と体現が含まれているのだが、その場面は1分ほどしかない。そして物語はスパッと終わる。全くと言っていいほど蛇足がなく切れ味の良い終わり方をしている。確かに普通の映画なら、主人公が決断をし最後の戦いに臨み、それに勝って、恋人と結ばれたりというイメージで終わるのでそれに比べると、「あれ?もう終わっちゃった。最後の結びの部分が描かれてないじゃん。」と感じる人もいるかもしれない。しかしそうではない。この映画の結びは、人工内耳を外すというアクション1つで過不足なく描かれているのだ。主人公は静寂の世界を選んだ。それがきっちりとわかるアクションで終わっている。「普通の映画のエンディングの尺」で言うと、静寂の世界を選んだ主人公が再びろう者のコミュニティに戻り歓迎されて、子供たちと仲良く暮らしている、というような描写が求められたかもしれない。本作で描かれたラストのシーンの後に5分から10分ぐらいかけてそのようなシーンを描くという選択もあったかもしれない。しかしそれは過剰である。蛇足である。そのようなシーンを描いた場合、主人公が人工内耳を外すというシーンよりも多くの豊かな意味を表現することができただろうか?できないだろう。人工内耳を外したというアクションだけで全ての意味が表現できたということである。その後のシーンを描いても、主人公は自分が中毒であることに気づき、静寂の世界に身を置くことが必要であるという学びを得た、という意味以上のことはなにもないのだ。だからこの映画は「結」に当たる部分は1〜2分しかないかもしれないが、そのわずかな時間で必要なだけの描写をきちんとできているのである。そして、そのようなエンディングだからこそ人々の記憶に残る映画になっているのだと思う

理想的な物語構造に沿っている

POVで本当に聴覚がなくなる感覚を追体験できる。それは本当に恐ろしく一種のホラーである

  • まず感情移入という点で今まで見てきた映画でトップクラスに主人公に共感する。主人公の葛藤や恐れというものにあまりにも共感しすぎてホラーのようにとても怖い気持ちになる。ジャンルや題材は全くもってホラーではないのに、感情はホラーに限りなく近い恐怖を感じている。これは圧倒的に初めての体験だった。
    • 観客としてここまで主人公の気持ちに彼の視点を通して物語を見ることができる映画というのはなかなかないと思う。これほどまでの没入度の映画はほとんどないと思う。没入度だけで言えば一番じゃないかな。あまりにも生々しいあまりにもリアルである 。その世界に入り込みすぎて、主人公に起きていることが自分にも起きていると錯覚しすぎて、題材自体はホラーではないが、感情的には完全にホラーである。恐怖の感情を覚えている。よく物語は主人公の視点で追体験できるメディアであると言われるが、それは建前で、実際は主人公に起きていることが本当の意味で自分にも起きていると認識することはほとんどないと言っていい 。ある意味「これは別世界の出来事である」というメタ的な認識がある。しかしこの映画ではこのメタ認識も打ち破り、主人公と限りなく一体化しているような気持ちになる、自分はもはや安全ではないのかもしれないという感覚になる。これはすごいことだよね。題材ではなく、表現の仕方でホラーになるという気づきがあった 。映画が感情体験のマシーンだとすると、ホラーじゃないのにホラーの感覚を味わうというのは完全に全く新しい映画体験となった。その意味でめちゃくちゃ高得点である。
  • なぜ、このような映画体験が可能になったのか?
    • 🟩 一つの要因は、最初からろう者ではなく、途中から中途失聴という設定だからこそ、できた映画体験だと思う。最初から聞こえないキャラクターの聴覚にPOVしても、変化がない。聞こえる状態から聞こえない状態への変化が重要である。
    • 🟩 「聞こえない」状態になるという変化が観客にとって予測可能であるか?不意打ちであるか?の違いが、真にリアルな聴覚の喪失の体験につながったのだと思う。
      • 例えば同じようにpov的な表現をして観客と主人公の視点をほぼ同じにして、観客に主人公が見る世界をフル体験させるという方向性の映画は他にもあるが、その中でも群を抜いている気がする。例えば宇宙系の映画とかは最近よく POV 的な表現をしている。本当に宇宙に行ったように何も聞こえなくなり、無音状態が生まれる、そして宇宙飛行士である主人公の視点になり、彼のヘルメットの中の息遣いだけが聞こえるみたいな主観を表現するPOV表現は非常に多い。ゼログラビティとか、確かオデッセイとかもそうだった。
      • 宇宙の映画の場合は、「聞こえない」ことを観客は想定している。観客は聞こえないんだろうなぁと予測できる。そして、実際に宇宙のシーンになると本当に聞こえないので、あーやっぱり聞こえないのかという感じ。しかし本作の場合は観客は「聞こえる」世界線、「聞こえる」ことが前提の物語世界にいるのに、冒頭突然聞こえなくなる。観客にとっては不意打ちなのだ。「聞こえない」予測していないタイミングで急に聞こえなくなるからこそ本当に怖いのだ。突然降ってきたような感覚。
      • 🔶 そして、この不意打ちの感覚を作るために重要なのが、物語世界(アリーナ)の選択である。
        • ゼログラビティやオデッセイという映画では物語世界が宇宙である。そして観客は宇宙が無音であることを知っている。だから無音の表現が来ても新鮮だなとは思うけど、ある意味で想定内の表現である。しかし本作は物語世界が観客が日々暮らしている現実世界である 。もっと言えば都会だったりしかもメタル音楽をやっていて普通の現実世界よりも音が大きな世界で始まる。つまり現実世界という物語世界ならば聞こえて当たり前なのにそれが急に聞こえなくなったという想定外(不意打ち)。観客である自分にも起きてしまうのではないかというリアル感が、あったからこそ最も観客の感情を揺さぶるpov表現になったのかもしれない。

バンドマンにとって聴覚が奪われるというのはアイデンティティの喪失であり、これは肉体的な死よりも恐ろしいホラーに感じられる

  • アイデンティティの喪失も「個の死」の亜種であり、これに打ち勝とうとするのも原始的欲求であるの一例
  • 個人的な感想になるけど、なぜだかわからないが余命があと数ヶ月みたいな話よりもはるかに共感できる。はるかに医者の言う言葉がリアルに感じる。本当に自分の身にも起こるのではないかと恐怖を感じるなぜだろうか
    • 「代償の大きさ」ということで考えると、命がなくなることに比べて聴力がなくなることは程度が小さいように思える。つまり命よりもまだましな代償というように思える。しかしなぜだか命を失うことよりもリアルで怖いと感じる。それは命を失うということはある種全てを失うことなので、ある種すっぱりと諦めることができるのかもしれない。命つくればそこで苦痛も終わるのだという、ある種の解放が期待できる。しかし聴力を失うということは全てを失うということではない。耳が聞こえなくなっても人生が続いていく。これは人によっては命を失うことよりも、はるかに長い地獄がずっと続いていくことを意味しているのかもしれない。死んだ方がマシだと考える人も多いかもしれない。
    • 耳が聞こえないことの残酷さが他の映画に比べてもこれほどリアルに感じられるのは、もうすぐで死にますという映画はたくさんあるが、もうすぐで耳が聞こえなくなりますという映画はあまりないという物語の作品数の大小の問題だけではないような気がする。上記で述べたような、ある意味で死ぬことよりも辛い地獄を想像してしまうからかもしれない。バンドが今の私の全てなんです。それがあるから生活できている、裕福とは言えないがそれなりに十分な満足できる生活である。そして今の私にバンド以外の選択肢はないんです。それなのにその唯一の選択肢が奪われたらどうすればいいんですか?地獄しか見えません。

病状を説明されて平然とした表情で「どうやったら治る?」と尋ねる主人公。彼は治らないかもというあまりに恐ろしい現実を見ないようにしている

  • キャラクターの性質をセリフや行動で巧みに表現した映画リスト
  • 医者に行く。検査を受ける。聴力テスト主人公は聞こえたと感じる単語を繰り返すが、観客はそれが全問正解していないことが分かる。そして、検査結果を素直に聞く。全体の24%しか聞こえないと言われても、「そうか、どうやったら治る?」と聞き返す主人公。「OKOKわかった、わかった、でどうしたら治るの。(そこで医者が病状を細かく説明しようとするが遮って)僕が聞きたいのは治療法だ 。」。これは言外に「治ることが前提」という意味がある。この感じめっちゃリアルな良いセリフだと思う。セリフの文言が良いという訳ではなく、ニュアンスが良い。どうしたら前のように聞こえるようになるかを、治ることが前提として平気なふりをして話している。自分でも薄々感づいているが、「治らない」という選択肢がそもそもない前提であえて平静を装っている。 16分
  • しかし、医者からものすごく残酷な説明をされる。君の聴力は数日間、数時間で急速に衰え始めている。そして失った聴力はもう元には戻らない。残された聴力をどうやって多く残すかを考えるべきだ
    • ノーマルワールドの完全なる破壊。

映画『天才作家の妻 40年目の真実』のストーリー構造(監督:ビョルン・ルンゲ)

  • 『天才作家の妻 40年目の真実』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

『天才作家の妻 40年目の真実』という邦題で映画の本質を観客に誤認させてしまった。これは謎解きの映画ではないのだ。

  • 原題は「The wife」であるのに対して、邦題は『天才作家の妻 40年目の真実』である。このタイトルが映画の本質とは違うところに、観客の期待を抱かせてしまったように思う。
  • この邦題により(特に「真実」という言葉により)観客の意識は「天才作家の夫婦にはとんでもない秘密が隠されている」ということに向かい、その秘密を探ることに焦点を当ててしまう。 もっと具体的に言えば、通常のミステリー作品のように彼ら夫婦の間には秘密があり、観客は2度もしくは3度映画に欺かれながら、終盤に彼らが隠している秘密に到達し満足する、と言う予測をさせてしまうだろう
  • しかし、この映画が描こうとしているのは、40年間影の存在として夫のゴーストライターとして執筆を続けてきた女性がどのような思いを抱えてきたか、どのように報われない日々と対峙してきたかであり、その「秘密(情報)自体」が核心ではないのだ(The wife その女性の生き様に焦点があるのだ)。ここで観客と作品の間にギャップが生じてしまう。観客が望んでいるものが提供できないという自体に陥ってしまった。天才作家の妻 40年目の真実』というからには、観客はあっと驚く秘密があることをどうしても期待してしまう。
  • 1時間40分という映画全体のほぼ中間45分頃に、その秘密がほとんどの観客が察することができるかたちで明かされる(勘のいい人なら、この中間地点に至る前になんとなく気づくこともできただろう。)。「妻がゴーストライター」だったのだ。 観客は夫婦に隠された秘密について期待しており、ほとんど映画の中間地点でそれが明かされるとは思っていない。なのに明かされてしまう。「え、さすがにこんな単純な秘密ではないよね?この後で事実が二転三転するんだよね?」と思って、映画の続きを見ていくと、これ以上の秘密は出てこない。これ以降の映画の内容は「隠された事実をさらに解き明かすこと」ではなく、「ゴーストライターであることに妻がどうやって向き合ってきたか、そしてこれからどうするか」という話になる。いかに実際の映画の後半部分の内容が優れていたとしても、観客はそんな内容を欲していないのである。

ゴーストライターであることが観客にばれないようにキャラクターが不自然に行動するため、観客はその作為に気づいて冷めてしまう

  • 観客にとっては最大のひねり(暴露)である「妻がゴーストライターである」という事実は、もちろんメインのキャラクターである妻と夫の両方が認識している。そして観客はこの夫婦が過ごす様子をずっと見ているのに、彼らはまさか観客にばれないように意識しているのか、その情報はずっと伏せられたままなのである。この違和感はすさまじい。観客を騙すためだけにキャラクターが行動し、映画が作られているような気がしてしまう。
    • しかもこの映画はその情報の不自然な隠蔽を上映時間の後半まで続けるのだ。この違和感ったらない。
    • もし 主人公が息子であれば、もっと自然な形で情報暴露することができただろう。観客は息子と同じ視点で 夫婦の秘密を知らない状態で、彼らに接していく。しかし父親が執筆している部屋に入れてもらえない。その部屋に入ることが許可されているのは母親だけである。そして父親はキャラクターの名前を覚えていない。これらのことから違和感を覚え出す。そして息子は夫婦の秘密を探ろうとして、最大の暴露が明かされる。このような構造であれば自然である。
    • しかし、本作は妻がメインの視点となり、夫ももちろん認識しているので、この情報を夫婦の間で隠す必要はないのに、ひたすら隠し続けるのである。それはキャラクターたちが観客にばれないように、観客の目線を意識しているからである。 観客は自分たちが座っている映画館の現実世界と物語の世界は接点がなく、干渉できないという前提で映画を見ている。しかし、映画やキャラクターの方は観客をもろに意識して、観客に対して情報を隠そうとしているのである。
    • 本作と同じで妻の視点だが、情報を隠すことを自然に行うにはどうすればよかったか? 妻に視点を置きつつ、ゴーストライターの件を知らない息子や娘を常に画面に登場させておけば、夫婦が情報を隠すことについて違和感は生じなかっただろう(息子の前で言及出来ないから)。でも本作は夫婦が二人きりの場面でも白々しく、さも知らないかのように、ゴーストライターの件についてはひた隠しにするのだ。
  • 映画自体が観客を強く意識しすぎて、観客に情報を伏せるためだけに映画全体が、そしてキャラクターが動いているように感じてしまう。キャラクターがこちら側(観客)の視点に気づいて、情報をごまかしているように感じてしまうのだ。

主人公の挑戦は敵とは全く関係のない偶発的な出来事によって何度も遮られる

  • 本作では敵が邪魔していると言うより、物語の構造や偶発的な出来事、それを運命や人生が彼女の邪魔をしていると言ってしまえば大それたものに聞こえるが、敵ではないものに邪魔され続けているという感覚がある。敵とは全く関係のないところから、急に邪魔されて頓挫してしまう。
    • 例えば、主人公である妻が問題と向き合おうとすると、拗ねる息子の対応に追われたり、フラッシュバックの回想が入ったり、夫とせっかく大喧嘩していたのに孫が生まれたという連絡が入ったり、最後は夫が発作を起こして中断したり、するのだ。そのたびに、主人公と、「彼女の目を通して物語を見ている観客」は目標に対する挑戦の歩みを一回止めなければいけなくなってしまう。これは物語の勢いを著しく損なってしまう。
  • 同じ失敗をしている他の映画の例は主人公の挑戦を邪魔するのが敵ではなく偶発的な出来事になってしまっている映画リストを参照。
  • (補足)主人公が 何度も挫折するという構造自体はむしろいい物語の特徴であるが、その挫折をもたらすのが敵ではなく偶発的な事件であると言うのが好ましくない。

フラッシュバックが多用される編集により、問題に向き合う主人公の歩みが鈍化して感じられる

  • 大きなフラッシュバックが3回入る。妻と夫の学生と教授としての出会ったとき、キスして不倫関係になったとき、初めてのゴーストライターをしてとき。しかし、これらのフラッシュバックシーンは、所詮「過去の妻の情報」でしかない。
  • もちろん主人公の過去を知ることも観客にとっては重要なのだが、もっとも観客が知りたくて、感情移入のために必要なのは「"今"の主人公がどのように考えているか、どのように葛藤しているか、何をしようとしているか」ということなのだ。しかし、そのような情報を提供する貴重な時間をフラッシュバックが奪ってしまう。過去の情報はたしかに今の主人公を形成しているが、どれだけフラッシュバックにより過去の情報を与えても、物語現在の主人公の歩みを進めることにはならないのだ 。よって主人公が目標に対して前進しているという感覚は観客には芽生えない。

映画『ザ・ギフト』のストーリー構造(監督:ジョエル・エドガートン)

  • ザ・ギフト』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

この物語の主人公は視点的にも内容的にも妻であるのに、エンディングで夫に物語を託して終わったのが最悪

(プロット)出産に立ち会ったサイモンが病院から帰宅すると、ゴードンから誕生祝いのベビーバスケットが届いています。添えられていたのは、夫婦の家の鍵。ゴードンは、彼らの会話を盗聴していました。同封されたDVDを見てサイモンは驚きます。映っていたのは、部屋で気絶したロビンを見つめるゴードン。ゴードンはロビンの体に触れ、のしかかろうとし、そこで映像が終わります。怒りと恐怖で固まるサイモン。その頃、ゴードンはベッドで目覚めたロビンに花束を渡し、帰るところでした。病院に駆け込んだサイモンは、ゴードンの姿を追いますが見失います。サイモンの携帯が鳴り、ゴードンの声が言います。「彼女との間に、何もなかったと言ってほしいんだろ」。そして、最後の“ギフト”が何かをサイモンに告げます。「赤ん坊の顔を見ろ。目を見ればわかる」。衝撃のあまり、その場に立ち尽くすサイモン。「人に弄ばれるというのはこういうことだ」、そう言ってゴードンは電話を切ります。 (https://eiga-watch.com/the-gift-2015/ より)

  • ほとんど終盤まで妻の視点で物語が進み、観客は妻に感情移入している。しかし終盤夫の視点に転換し、夫の物語として終わってしまう。夫は妻が今まさに産んだ子供が「ゴードンの子であるという疑念」を植え付けられて(復讐されて)終わるのだ。妻はエンディングでセリフを発する時間すら与えられない。夫と敵のゴードンのやり取りで終わるのだ。
  • このようにエンディングを夫視点で終わったのは、失敗だと思う。観客は誰に共感して物語を終えればいいのかわからないからである。 妻はこのことを知らないし、せめて妻が事実を知れば妻の感情に思いを寄せることができるが、観客は何ら知らない妻がかわいそうだと思うことしかできないし、夫の事はクズ野郎だと思っているので、彼が罰せられるのは自業自得だと感じるだけで、彼に同情することはできない。
  • なんで夫の視点で終わると違和感があるのか?それは映画が終わって、この主人公夫婦の続き(彼らとその子どもはどうなっていくのか?)を想像した時に、妻はまだ何も知らないのだから、「夫は次にどうするのか?」という 夫の次のアクションを考えるという想像しかできないからだ。
    • 正直観客は妻のことだけが心配なのに夫のことをまず考えないといけない。夫が子どもについての疑惑を言うのか言わないのか。を考えてからそれに対する妻のリアクションを考えないといけない。夫はどうでもいんだ。妻のことを考えたいんだよ。この物語の核は、愛する家族の欠点や秘密、そしてそれが招いた結末を受け入れるべきなのか、拒絶するべきなのか、という点であるのにもかかわらず、妻は家族の秘密がもたらした結末(自分の子が他人の子かもしれない)を知ることすらできずに終わってしまうのだから、「受け入れるか拒絶か」の選択肢すら持っていないのだ。
    • 観客は物語の終盤まで終始妻の視点で一緒に体験し、妻の悩みを分かち合ってきた。しかし、最後に夫の視点で夫の物語で終わるということは、「二人の男の間で繰り広げられるゲームに巻き込まれたかわいそうな被害者」として妻も観客も物語を終えることしかできなくなったのである。観客は妻と一緒にゲームのコマになったような、この辛い経験に対して向き合おうとする選択肢すらなく、受け身で終わってしまうのだ。妻の目線で物語を体験してきた観客は、自身も利用された気分になり映画を終える。まさに彼女とその子供は敵からのギフトとして意思をもたないモノやコマのように扱われる
  • 以上の点からも、最後は妻視点で良かったのでは?と思う。妻が事情を知って、あっけにとられて絶望するという終わり方のほうがまだマシだと思う。
  • もしくは 中盤でゴードンから豪邸に招かれるシーケンスを再利用すると面白いかもしれない。豪邸のシーケンスでは、「夫と同級生が話しているのを妻が外から見ており、会話が聞こえないというシーン」があるが、あのシーンの構造を反転させて、以下のようなエンディングなら良かったのではないか?
    • 急いで病室に戻ってきた夫は、病室の窓から同級生ゴードンと妻が話しているのが見える。同級生はビデオを見せているようだ。妻は絶望した顔をしている。それを見て、夫はその場で崩れ落ちる。そして、妻視点に切り替わり、ゴードンが捨て台詞を吐いて去っていく。ゴードンは病室のドアで夫とすれ違うが、膝から崩れ落ちている彼を見下しながら去っていく。そして妻の視点に戻り、ラストショット。みたいな感じで、最後妻の視点で終わってほしかった。

典型的なスリラーのように、誰かが死ぬラストにならないひねりは良いが、代替の展開がつまらない

  • この手のスリラーは、2幕の終わり時点で全員の本性がわかり、3人の中心人物のうち誰かが死なないと解決しないという典型的なラストを迎えるため、3幕はチェイス・シーンや暴力的なシーンに移行することが多い。 しかし、本作はほとんど最後まで同級生や夫の本性や秘密がわからないというサスペンスや不確実性の展開を継続し、暴力的な展開には陥らなかった。
  • その試みはいいんだけど、典型パターンが2幕で終わるサスペンス要素を、そのまま3幕まで引き伸ばしただけで、サスペンスの総量は変わっていないような印象。そのため、典型パターンが1幕と2幕で50ずつ、計 100のサスペンス量があると仮定すると、この映画は3幕にも50追加して計150にするのではなく、1幕と2幕3幕全部で100にしただけなのだ。よって、各幕の密度は下がり展開が遅く感じられてしまった。 よくある映画のような展開にしないと言うだけではなく、その省いた展開の部分に新しい刺激的な展開を持ってきてほしかった。
  • じわじわと敵の狂気があらわになっていくと言えば聞こえはいいが、と言うよりも、些細な狂気が何度も繰り返されただけで展開に乏しいといったほうがいいかもしれない。些細な狂気では引っ張れないくらいの時間を無理やり引っ張ろうとしたので、早く狂気見せろよと思ってしまった。
    • なぜか開いて水がでる蛇口、いなくなった家族のペット、霧のかかったシャワーのドアに忍び寄る影のような存在など暴力や格闘シーンが始まりそうな展開に思えるが、最後まで暴力は発生しないのがもどかしい。スリラーだから何かしらの暴力をやっぱり期待してしまうんだ。
    • 例えば、敵は夫の謝罪を受け入れ、仲良くなったというシーンを描く、そして、夫婦の結束は強くなり、全てがうまくいき始め、いよいよ出産。しかし、その日に敵は謝罪を受け入れたのは嘘だったことが分かり、復讐をするという感じなら、感情曲線的にも展開が作れたのでは?
  • ただ、「3人の中心人物のうち誰かが死ぬ」という展開を裏切って、その復讐の矛先を赤ちゃんに向けたというのはいい裏切りだった。しかも赤ちゃんの生命を奪うというより、一層悪趣味な赤ちゃんはゴードンの子供の可能性があるという復讐。言われてみれば、もっとも残酷で皮肉な復讐。その手があったか!という感じ。

HBOドラマ『The Last of Us』第3話のストーリー構造(監督:ピーター・ホアー)

  • The Last of Us』第3話のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。


(プロット)2003年 隔離地域の兵士から逃れて、周りの住民が連行されても一人そこに住み続ける男ビル。街を独占して4年住み続ける。あらゆる資材を一人で使える。ある男が感染者用のワナにかかる。彼の名はフランク。ここ最近何も食べていないから飯をくれと頼む。しぶしぶ家に招きいれ、ビルはフランクに料理とワインを振る舞う。幸せそうなフランク。

  • ここでビルのセリフがリアルで最高に良かった。「まだあるぞ」とお代わりを勧めてしまうのだ。久しぶりの人間との会話。顔はずっと険しく眉間にシワが寄り、腰元に銃を携帯して警戒しているのとは、全く裏腹なセリフである。
  • その後フランクが「じゃあそろそろ行くよ」と言うと、ビルは無言でうなずく。まるで長年の友人との別れを噛みしめているかのように。


(プロット)数年後、フランクはテスと繋がったことにより、内地と物資交換をするようになり、イチゴのタネを入手し、ビルにサプライズでプレゼントする。イチゴをかじって泣き出すビル。

  • この世界で生きるということがどういうことかリアルに描写されている。彼らがどのように生きているか、どのようなことが嬉しいのか、というのが伝わってくる。


(プロット)数年後、略奪者が来る。 腹を撃たれたビルは、フランクに遺言を残す。画面が暗くなり、フランクが「ビル」と呼ぶ声だけが響く。画面を明るくなりそこには10年後のフランクとビルの姿がある。

  • 観客はフランクのビルを呼ぶ声を聞いて、ビルが死んでしまったと悲しむ。しかし、数秒後画面は明るくなり、そこには二人の姿がある。「暗い画面に死んでいく人物の名前を叫ぶ」というよくある描写を逆手にとって、観客の予測を裏切っている。


(プロット)最後の日を過ごす。夕食のシーン。

  • 夕食のワインを飲んだフランクは、ビルと初めて出会った日と同じリアクションをする。そのあまりの美味しさに天を仰ぐのだ。 あの日と違うのは2人の距離だけである。あのとき長いテーブルの端と端に座っていた2人も、今では隣同士で寄り添っている。
  • 世界がパンデミックに陥っているとか関係ないのでは?と感じた。彼らを見ているとそんなこと忘れてしまった。世界の情勢なんてものは関係なく、全力でその世界を楽しみ、全力で相手のことを愛すということはどんな世界であってもできるのだ。
  • ビルが当初得体のしれない男を警戒していたように、観客(私)自身も「この気の良さそうな男(フランク)と仲良くなるが、どちらかが裏切って醜い殺し合いになるのだろう」と思っていた。そういう世界観の物語なのだと思い込んでいた。しかし、ビルが愛を知ったように、観客(私)もこの世界に愛があることを知った。
  • 最後の日に流れるMax Richterの『On The Nature Of Daylight』が最高である。