映画見てるときの思考たれ流す

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映画『サウンド・オブ・メタル -聞こえるということ-』のストーリー構造(監督:ダリウス・マーダー)

  • サウンド・オブ・メタル -聞こえるということ-』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

テーマとシンボルが絡み合った物語

  • 非常にシンプルな物語展開だが、キャラクターやテーマシンボルというものは複雑に絡み合っている。
  • 私たち観客にとっては耳が聞こえなくなるという問題が最も大きな問題のように思うが、実はこれさえもシンボル であると脚本は考えているらしい。確かに大きな問題ではあるが別に聴覚でなくても良かったということ、マクガフィンにすぎないということ。というのも問題の本質というのは、「中毒(執着)」である
    • 主人公は昔麻薬中毒であり、今はそれを紛らわすために「ノイズ」に中毒になっているのだ。彼は静寂というものに耐えることができない。静寂に耐えようとすると麻薬の誘惑がすぐに襲ってくる。薬の誘惑を断ち切るために別の興奮剤である、ノイズで埋めているだけなのだ 。彼はメタルや彼女によって麻薬中毒者の人生から好転したわけではなく(生きがいを見つけたというわけではない)、別の中毒を見つけただけだったのだ。だからこそ主人公は、麻薬中毒になってボロボロになったように、今度はノイズ中毒により耳が聞こえなくなった。つまりこの物語の本質は、彼が中毒から離れない限り、人生を根本から好転させることはできないということだ。そして彼はそれに気づかず、メタルのある生活、音が聞こえる生活、彼女がそばにいる生活を再び求める。そして彼は人工内耳の埋め込みを行い、元の生活に戻ろうとしたところで、失敗する。そして、最後の最後に本質に気づく。ジョーが言ってたのはこれだったのか。静寂がなぜ大事なのか、なぜ自分に必要なのか。何かに依存し中毒になることをやめなければならないと物語の最後の最後で気づいた。失ったものは大きいが彼は彼の人生は好転していく可能性を秘めているという意味でハッピーエンドという捉え方もできる
  • 主人公がメタルや彼女を愛している様子は素晴らしいもの、良いものだと鑑賞中は思っていた。しかし実はメタルや彼女の存在こそが、主人公の中毒の対象であり、断たなければならないものだった。これはある意味、ミスリードである。 ^7xvvuj

メタルや聴覚というのは、主人公の中毒・執着を示すシンボルだった。主人公は物語の最後に自分の執着に気づき、聴覚を放棄することを決断する

  • 「メタル」、そして、「その音を聞くための聴覚」というのは主人公の成長やテーゼの変化を示すシンボルである。
    • 👉 パラサイトもサウンドオブメタルも構造的には似ていると思う。パラサイトでは金持ちになりたいという欲求のシンボルとして友達からもらった水石のオブジェがある。サウンドオブメタルでは主人公の中毒という性質を表すシンボルとして聴覚がある。そして両作品とも主人公は、水石と聴覚を必死に守ろうとする。どんな犠牲を払ってでも、手に入れようとする。彼らにとっては何よりも大切なものなのだ。しかし物語の展開を経るにつれ、主人公たちはそれを追い求めすぎて過剰になっていく。そして終盤、彼らはエスカレートしすぎて、大きなものを失う。パラサイトでは家族を失い、サウンドオブメタルではメタル音楽と彼女を失う。そして、彼らは自分たちの欲求が間違っていたことに気づく。あれほど欲していたシンボルを手放さなければならないことに気付く。啓示である。

# 彼女は主人公の「執着・中毒」のオールドテーゼに対して、「静寂・反執着」のアンチテーゼを体現するサブキャラクターである

  • 物語終盤、彼女と再会し、主人公は彼女の手首の傷が消えており、見た目も全然違うことに気づく。すっかり仲よくなって、父と彼女は一緒に歌っている。 カノジョの隣で演奏する人は自分ではなくなってしまった。つまりこれは彼女が主人公と離れている間に「静寂」を見つけたということである。今の彼女にはストレスがかかっていない。しかし、主人公が「これからアルバムを出してツアーにも回ろう」という話をすると、彼女はまた手首をかきむしり始める。彼女の中で不安が再び表面化してしまった。そこで主人公は気づく、お互いに愛しているかもしれないがこれは依存でありお互いが中毒なのだ。お互いから離れて、それぞれの静寂を見つけなければ、傷つけ合ってしまう。主人公はキャンピングカー、ドラムだけではなく、最後には彼女さえ手放さなければいけない、ことに気づく(啓示)。すべてを失うが、彼は彼にとって根本から変わることでもある(ある種のハッピーエンドである)。
  • その意味でジョーも「静寂・反執着」のアンチテーゼを体現するサブキャラクターである。彼は主人公の写し鏡なのだ。コインの裏表の関係にある存在である。ジョーも同じように昔、麻薬の中毒であり、パートナーを失った。今は静寂が本質であることを知っている。静寂を嫌って別のもので静寂を埋めてはいけないことを知っている。別の何かに依存し中毒になってはいけないことを知っている。正しい道を選べばジョーのように落ち着いた生活ができるが、何が正しいかは物語の終盤になるまで主人公は気づかない。 ^o2r6wo

蛇足のないスパッとした切れ味で物語を終える

  • この映画には起承転結の「結」の部分がないというレビューが時々あるがそうではないと思う。この映画は決して、物語がこの後どうなるか、あとの解釈は観客であるあなたたちに任せますというようなタイプの映画ではない。「結」とは何であるかを考えてみればわかる。物語の結びで求められるのは主人公が最後の決断をし、そして決断するだけでなくその決断を体現するということである。これが結びにあればいいのだ。そして本作で言えば、主人公はノイズの世界ではなく静寂の世界で生きることを決め、その決断を耳につけられている機械を外すというアクションで体現している。つまり本作はきちんと物語が結ばれて終わっていると言えるのだ。きちんと決断と体現が含まれているのだが、その場面は1分ほどしかない。そして物語はスパッと終わる。全くと言っていいほど蛇足がなく切れ味の良い終わり方をしている。確かに普通の映画なら、主人公が決断をし最後の戦いに臨み、それに勝って、恋人と結ばれたりというイメージで終わるのでそれに比べると、「あれ?もう終わっちゃった。最後の結びの部分が描かれてないじゃん。」と感じる人もいるかもしれない。しかしそうではない。この映画の結びは、人工内耳を外すというアクション1つで過不足なく描かれているのだ。主人公は静寂の世界を選んだ。それがきっちりとわかるアクションで終わっている。「普通の映画のエンディングの尺」で言うと、静寂の世界を選んだ主人公が再びろう者のコミュニティに戻り歓迎されて、子供たちと仲良く暮らしている、というような描写が求められたかもしれない。本作で描かれたラストのシーンの後に5分から10分ぐらいかけてそのようなシーンを描くという選択もあったかもしれない。しかしそれは過剰である。蛇足である。そのようなシーンを描いた場合、主人公が人工内耳を外すというシーンよりも多くの豊かな意味を表現することができただろうか?できないだろう。人工内耳を外したというアクションだけで全ての意味が表現できたということである。その後のシーンを描いても、主人公は自分が中毒であることに気づき、静寂の世界に身を置くことが必要であるという学びを得た、という意味以上のことはなにもないのだ。だからこの映画は「結」に当たる部分は1〜2分しかないかもしれないが、そのわずかな時間で必要なだけの描写をきちんとできているのである。そして、そのようなエンディングだからこそ人々の記憶に残る映画になっているのだと思う

理想的な物語構造に沿っている

POVで本当に聴覚がなくなる感覚を追体験できる。それは本当に恐ろしく一種のホラーである

  • まず感情移入という点で今まで見てきた映画でトップクラスに主人公に共感する。主人公の葛藤や恐れというものにあまりにも共感しすぎてホラーのようにとても怖い気持ちになる。ジャンルや題材は全くもってホラーではないのに、感情はホラーに限りなく近い恐怖を感じている。これは圧倒的に初めての体験だった。
    • 観客としてここまで主人公の気持ちに彼の視点を通して物語を見ることができる映画というのはなかなかないと思う。これほどまでの没入度の映画はほとんどないと思う。没入度だけで言えば一番じゃないかな。あまりにも生々しいあまりにもリアルである 。その世界に入り込みすぎて、主人公に起きていることが自分にも起きていると錯覚しすぎて、題材自体はホラーではないが、感情的には完全にホラーである。恐怖の感情を覚えている。よく物語は主人公の視点で追体験できるメディアであると言われるが、それは建前で、実際は主人公に起きていることが本当の意味で自分にも起きていると認識することはほとんどないと言っていい 。ある意味「これは別世界の出来事である」というメタ的な認識がある。しかしこの映画ではこのメタ認識も打ち破り、主人公と限りなく一体化しているような気持ちになる、自分はもはや安全ではないのかもしれないという感覚になる。これはすごいことだよね。題材ではなく、表現の仕方でホラーになるという気づきがあった 。映画が感情体験のマシーンだとすると、ホラーじゃないのにホラーの感覚を味わうというのは完全に全く新しい映画体験となった。その意味でめちゃくちゃ高得点である。
  • なぜ、このような映画体験が可能になったのか?
    • 🟩 一つの要因は、最初からろう者ではなく、途中から中途失聴という設定だからこそ、できた映画体験だと思う。最初から聞こえないキャラクターの聴覚にPOVしても、変化がない。聞こえる状態から聞こえない状態への変化が重要である。
    • 🟩 「聞こえない」状態になるという変化が観客にとって予測可能であるか?不意打ちであるか?の違いが、真にリアルな聴覚の喪失の体験につながったのだと思う。
      • 例えば同じようにpov的な表現をして観客と主人公の視点をほぼ同じにして、観客に主人公が見る世界をフル体験させるという方向性の映画は他にもあるが、その中でも群を抜いている気がする。例えば宇宙系の映画とかは最近よく POV 的な表現をしている。本当に宇宙に行ったように何も聞こえなくなり、無音状態が生まれる、そして宇宙飛行士である主人公の視点になり、彼のヘルメットの中の息遣いだけが聞こえるみたいな主観を表現するPOV表現は非常に多い。ゼログラビティとか、確かオデッセイとかもそうだった。
      • 宇宙の映画の場合は、「聞こえない」ことを観客は想定している。観客は聞こえないんだろうなぁと予測できる。そして、実際に宇宙のシーンになると本当に聞こえないので、あーやっぱり聞こえないのかという感じ。しかし本作の場合は観客は「聞こえる」世界線、「聞こえる」ことが前提の物語世界にいるのに、冒頭突然聞こえなくなる。観客にとっては不意打ちなのだ。「聞こえない」予測していないタイミングで急に聞こえなくなるからこそ本当に怖いのだ。突然降ってきたような感覚。
      • 🔶 そして、この不意打ちの感覚を作るために重要なのが、物語世界(アリーナ)の選択である。
        • ゼログラビティやオデッセイという映画では物語世界が宇宙である。そして観客は宇宙が無音であることを知っている。だから無音の表現が来ても新鮮だなとは思うけど、ある意味で想定内の表現である。しかし本作は物語世界が観客が日々暮らしている現実世界である 。もっと言えば都会だったりしかもメタル音楽をやっていて普通の現実世界よりも音が大きな世界で始まる。つまり現実世界という物語世界ならば聞こえて当たり前なのにそれが急に聞こえなくなったという想定外(不意打ち)。観客である自分にも起きてしまうのではないかというリアル感が、あったからこそ最も観客の感情を揺さぶるpov表現になったのかもしれない。

バンドマンにとって聴覚が奪われるというのはアイデンティティの喪失であり、これは肉体的な死よりも恐ろしいホラーに感じられる

  • アイデンティティの喪失も「個の死」の亜種であり、これに打ち勝とうとするのも原始的欲求であるの一例
  • 個人的な感想になるけど、なぜだかわからないが余命があと数ヶ月みたいな話よりもはるかに共感できる。はるかに医者の言う言葉がリアルに感じる。本当に自分の身にも起こるのではないかと恐怖を感じるなぜだろうか
    • 「代償の大きさ」ということで考えると、命がなくなることに比べて聴力がなくなることは程度が小さいように思える。つまり命よりもまだましな代償というように思える。しかしなぜだか命を失うことよりもリアルで怖いと感じる。それは命を失うということはある種全てを失うことなので、ある種すっぱりと諦めることができるのかもしれない。命つくればそこで苦痛も終わるのだという、ある種の解放が期待できる。しかし聴力を失うということは全てを失うということではない。耳が聞こえなくなっても人生が続いていく。これは人によっては命を失うことよりも、はるかに長い地獄がずっと続いていくことを意味しているのかもしれない。死んだ方がマシだと考える人も多いかもしれない。
    • 耳が聞こえないことの残酷さが他の映画に比べてもこれほどリアルに感じられるのは、もうすぐで死にますという映画はたくさんあるが、もうすぐで耳が聞こえなくなりますという映画はあまりないという物語の作品数の大小の問題だけではないような気がする。上記で述べたような、ある意味で死ぬことよりも辛い地獄を想像してしまうからかもしれない。バンドが今の私の全てなんです。それがあるから生活できている、裕福とは言えないがそれなりに十分な満足できる生活である。そして今の私にバンド以外の選択肢はないんです。それなのにその唯一の選択肢が奪われたらどうすればいいんですか?地獄しか見えません。

病状を説明されて平然とした表情で「どうやったら治る?」と尋ねる主人公。彼は治らないかもというあまりに恐ろしい現実を見ないようにしている

  • キャラクターの性質をセリフや行動で巧みに表現した映画リスト
  • 医者に行く。検査を受ける。聴力テスト主人公は聞こえたと感じる単語を繰り返すが、観客はそれが全問正解していないことが分かる。そして、検査結果を素直に聞く。全体の24%しか聞こえないと言われても、「そうか、どうやったら治る?」と聞き返す主人公。「OKOKわかった、わかった、でどうしたら治るの。(そこで医者が病状を細かく説明しようとするが遮って)僕が聞きたいのは治療法だ 。」。これは言外に「治ることが前提」という意味がある。この感じめっちゃリアルな良いセリフだと思う。セリフの文言が良いという訳ではなく、ニュアンスが良い。どうしたら前のように聞こえるようになるかを、治ることが前提として平気なふりをして話している。自分でも薄々感づいているが、「治らない」という選択肢がそもそもない前提であえて平静を装っている。 16分
  • しかし、医者からものすごく残酷な説明をされる。君の聴力は数日間、数時間で急速に衰え始めている。そして失った聴力はもう元には戻らない。残された聴力をどうやって多く残すかを考えるべきだ
    • ノーマルワールドの完全なる破壊。