映画見てるときの思考たれ流す

映画見ながら考えたことをたれ流します

映画「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」のストーリー構造(監督: ジェームズ・ガン)

  • 「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」において、ストーリー構造が観客にどう作用しているのかを分析したいと思います。
  • ストーリー全体の構造を分析するよりも、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。タイトルとは別の映画のネタバレに触れることもあります。

恐怖という感情が欠落したキャラクターを視点にすると、観客に恐怖は伝わらない

  • 演出:観客に特定の感情を体験させるのに最も適切な視点
  • スーサイド・スクワッドとは「自殺部隊」という意味であり、重犯罪者を集めた使い捨ての部隊という意味である。よって、いかに危険で恐ろしい任務かを観客に伝える必要がある。簡単な任務に見えては、意味がないのだ。
  • しかし、 百戦錬磨の主人公たちには、恐怖と言う感情が存在しない。冒頭から彼らの視点で描いてしまうと、「それほど危険じゃないのでは?」という印象を観客は抱く
    • 実際、ラットキャッチャーが死んでしまうプロットもあったと監督はいっており、誰でも死ぬ可能性があるほど危険な任務であり、それを観客にわかってもらう必要があった。
  • この問題を克服するために制作陣が取ったのは、「(実は)それほど強くなく恐怖心を持つ人間」を視点に設定することである。それがオープニングの金髪の囚人である。 彼は最初のシーンからいかにも強そうな人間に見える。しかし、彼と一緒に派遣される仲間がヘリで任務に向かっているところを見るとどうも馬鹿っぽく、どこか頼りなく観客は感じる。その予感は的中する。 島に上陸した彼らは次々に殺されてしまう。その光景を見て金髪の主人は恐怖を感じ、子供のように叫び声をあげて逃げ出してしまう。この視点の操作により、この任務がいかに危険であるかを観客に伝えているのだ。仲間の中にはハーレークインもいたが、もし彼女の視点で描かれていたとしたら、観客は全く危険度を感じなかっただろう。彼女は真に強く、恐怖や怯えという感情が欠落したキャラクターなのだ。
    • 観客にある感情を抱かせたいのなら、その感情を一番表現できるキャラクターの視点で描写すべきなのだ。決して、その感情が欠落したキャラクターを視点に設定してはいけない。
    • しかもOP早々ミッションに派遣されるシーンを見ることで、ド派手な戦闘シーンが見れて、ワクワク感が高まるという効果もある。(結局メンバーは殺され、この期待は裏切られるが。)OPを主人公のメンバー集めのシーンから始めるより、はるかにワクワク感が強い。しかも、最初の部隊が殺されることで、主人公の第二部隊がどれだけ強いかを示す比較対象にもなる。
  • 同じ作劇方法の例)死霊館_恐怖を感じない霊能者に視点を設定すると観客も怖くない

Inciting_Event

  • Inciting_Eventリスト
  • 主人公の弱点は「自分は暗殺者としてしか生きられない」という主人公の精神的な束縛であり、この束縛によって、娘に父親として振る舞うことができない、という状況から物語は始まる。そんななか、娘が逮捕されてしまい、このままだと悪質な刑務所に入れられるという危機に直面する。その危機を解決するために、スクワッドに入るよう政府からの提案を受ける(この提案がInciting Event)
  • この時点の主人公の性格はノワールの主人公に近い気がする。ノワール映画#^noirSquadを参照。
  • Inciting Eventの条件をすべて満たす良いInciting Eventが設定されている
    • 1 sudden oppotunity(Normal Worldで生きる主人公のもとに突然やってくる):突然娘が捕まる
    • 2refusal (主人公による拒否):冒頭から主人公はスクワッド入隊を拒否しているので、当然今回も拒否する。「自分は暗殺者である」というオールドテーゼを消し去りたい主人公は暗殺任務につくことを拒否している。
    • 3reluctant agreement(消極的な合意):しかし、娘が人質となり対応せざるを得なくなる。

ラットキャッチャーは主人公の「内的な欲望」と「弱点」が融合した存在である

  • ラットキャッチャーのネズミは主人公に弱点を想起させる
    • 主人公は、幼い頃から暗殺の方法について父親から教育を受けており、ヘマをすると、狭い木箱の中に閉じ込められ、中には飢えたネズミがたくさんいた、というエピソードをかたる。このことから、ネズミは父親との辛い過去のシンボルであり、「自分は暗殺者としてしか生きられない」という主人公の精神的な束縛を示している(この束縛によって、娘に父親として振る舞うことができない)。
  • ラットキャッチャー自身は主人公に内的な欲望(娘との関係修復)を想起させる
    • 主人公は娘と良い親子関係を築きたいと内心では思っている。しかし、 彼は自分の父親に暗殺者として育てられ、それ以外の生き方を知らない。他人と適切な関係性を築く方法というのを知らない。この弱点が主人公の欲望を邪魔しており、娘と対立する姿勢を取らせている。同時に主人公は暗殺者としての人生をやめようと思い、これまで政府の人間からミッションについて誘われたが、全て断り、トイレ掃除をしている。つまり、「暗殺者を卒業し」、「娘の父親になる」のが内的な欲望である

主人公の性格を冷静に考えると、ラットキャッチャーにすぐに感情移入するのはおかしく思えるが鑑賞中は違和感がない

  • キャラクターの感情や行動に説得力がなくても観客と同じであれば違和感は生じにくいの例
  • 主人公は終盤までほとんどチームのメンバーに感情移入していない(信頼関係を構築しない)が、例外的にラットキャッチャーには感情移入している。 人とのコミニケーションを拒絶する主人公が感情移入するには両者の間にかなりの濃厚なコミニケーションが必要だと思うが、本作ではラットキャッチャーの父親とのエピソードのみで主人公は彼女に感情移入することになる。主人公の性格を考えるとこんなに簡単に感情移入するのはおかしいと観客は思う可能性もあったが、本作ではその疑念は抱かなかった。それは観客自体がラットキャッチャーに感情移入していたからかもしれない。観客はラットキャッチャーのことを父親を愛する素敵な少女として好感を抱くので、主人公が同じように感情移入しても違和感を感じにくい。よくよく主人公の性質を考えるとおかしい感情移入であっても上映中は気づかない。

観客に真剣に受け取ってほしいなら詳細を語り、コメディとして笑ってほしいなら詳細を省く

  • 観客に真剣に受け取ってほしいなら詳細を語り_コメディとして笑ってほしいなら詳細を省くの一例
  • ピースメーカーが 平和のためにすべての人を殺してもいいと思っている理由は明かされない。政府側の女性リーダーが何のために非人道的実験をし、その隠蔽に躍起になっているのかもわからない。もし彼らの切実な動機や過去が明かされれば、観客は彼らに同情したかもしれないが、今作では情報を開示せず、勧善懲悪的スタイルを取っている。これにより、ピースメーカーが主人公に撃たれることでカタルシスを感じ、女性リーダーが同僚にバットで殴られて失神しても「よくやった!」と笑えるのだ。
  • 主人公はネズミ嫌いである。このネズミのエピソードは何度か出てくるが、注目したいのは最初主人公のネズミ嫌いは仲間に笑われていたということ。 観客も屈強な暗殺者である主人公がなぜ小さなネズミにそんなに怖がるのかと、そのギャップに笑った。しかし、その原因となる過去の父とのエピソードが詳細に語られてからは、笑えなくなった。 つまり主人公のトラウマを理解すると、観客は もはや笑うことができず、乗り越えるべき過去として主人公が成長出来るように応援するようになる。

最後の啓示の直前に物語のプレッシャーはゼロになるが、それでも主人公はオールドテーゼに戻ることを自分の意志で拒否する

  • 物語は最後に主人公がオールドテーゼに戻れるという皮肉なチャンスを与えるリストの一例
  • ヒトデ怪物が暴れまわり目の前では一般市民が殺されている状況で、アメリカの不都合な研究データは消したため、任務は完了、撤退を命じられる。これは目の前の市民を助けずに、「冷酷な暗殺者の自分」(オールドテーゼ)へと戻るよう物語がそそのかしている。しかし、主人公はその命令を拒否する。たとえ、体内に埋め込まれた起爆装置を発動するわよ、と脅されても、自分の意思で拒否する

『スティルウォーター』と非常に近いプロット

  • スティルウォーターとかなり軌道が近い。特に2/3時点くらいまではほぼ同じ。以下、スーサイドとスティルウォーターについて比較してみる。
  • 主人公は父親として娘と良い関係が築けていない。
    • スーサイド:面会室で「Fワード」で罵り合う場面が象徴的。
    • スティルウォーター:娘の育ての親はおばあちゃんであり、育児にはほとんど関わっていなかった。娘の手紙にも「父はあのとおりで信用できません」という言葉が書かれている。
  • 娘を救うことを決意する。
    • スーサイド:政府高官のウォラーに娘を人質に取られ、娘を救うため極秘ミッションにリーダーとして参加。
    • スティルウォーター:ルパルク弁護士が協力してくれないため、娘の無実を証明するため独自で調査に乗り出す。
  • その過程で少女と出会う。彼女は主人公に娘の存在を思い起こさせる。
    • スーサイド:チームメンバーとしてラットキャッチャー2と出会う。
    • スティルウォーター:ホテルの隣の部屋に宿泊していた少女マヤと出会う。
  • 両作品とも少女には父親がいない。
    • スーサイド:ラットキャッチャーの父は亡くなっている
    • スティルウォーター:少女の両親は離婚していて、母親と暮らしています。最近は会っていないとも語られる。
  • 次第に少女と良い関係を築いていく。まるで父親のような関係性。
    • スーサイド:車内でそれぞれの過去を明かし「生きて帰す」ことをお互いに誓い合う
    • スティルウォーター:少女の面倒を見るようになったり、一緒に家を修理したりします。
  • そして娘を救うための最後の戦いに向かっていくのだが、ここから両作品に違いが現れる。
    • スーサイド:ラットキャッチャー2やチームの仲間と協力してヒトデ型モンスターとの戦いに挑む。この戦いで少女の存在は主人公の目標(モンスターを倒すこと、娘を開放すること)を達成するための力になっている。ラットキャッチャー2は劣勢だった戦況をひっくり返す。ラストシーン、帰還する飛行機の中で主人公はネズミを恐る恐る撫でる。これによりねずみを克服しました。これが何を意味するか、ネズミは暗殺者として育てられた少年時代の象徴であり、この暗殺者としての自己認識により主人公は他人と良い関係を築くことができないと、自身を縛り付けていました。映画には直接描写されていませんが、この呪縛から解かれたということは、主人公はこの後娘と親子の関係性を築くことができるはずだ、というポジティブな期待を抱かせ、物語は終わります。
    • スティルウォーター:少女マヤやその母親ヴィルジニーの支えのおかげで主人公は異国かつ危険な街で捜査を進めていくことができていた。しかし、主人公は犯人を逃してしまい、娘に嘘を付いていたこともバレてしまう。そして物語は一気に4ヶ月飛びます。ここからヴィルジニーとマヤのいる環境は主人公の目標達成を助けると言うより、目標達成から遠ざけるような甘い誘惑としても機能しはじめる。マヤは主人公にとても懐き、ヴィルジニーともどんどん距離が縮まっていく。少女たちの存在をポジティブな力に変えるのではなく、主人公は依存してしまう。依存してしまった主人公には2つの選択のどちらかを選ばなくはならない。このまま当初の目標を諦めて目の前の幸せを掴むか、もう一度当初の目標を思い出し実現するために、目の前の幸せを放棄するか。本作では後者を選んだが、娘の冤罪を晴らすことができてよかったとスッキリとしたハッピーエンドで終わるのではなく、実は娘が依頼したことが発端となっていたという非常にグレーな終わり方をします。
  • (補足)この疑似家族観(親と娘の擬似的関係)はウィンドリバー_映画にも共通する

観客の感情と物語のキャラクターの感情の違い

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  • 上記書籍には以下のように書いてある。(意訳)

  • 観客自身の感情とキャラクターの感情の2種類を区別することが重要です。例えば、コメディーでは、登場人物がストレスを感じていても、観客は笑ってしまう。また、スリラー映画では、登場人物は冷静で何も知らないが、我々は彼の知らないことを知っているので、彼のために恐怖を感じる。
    • この区別が重要なのは、脚本において重視すべきは観客の感情であって、キャラクターの感情ではないからです。例えば、あるキャラクターを泣かせれば、観客は悲しみや哀れみを感じるだろうと誤って考えてしまうのです
    • 必ずしもキャラクターに強い感情表現をさせればいいのではない。キャラクターが泣くかどうかは、観客が泣くかどうかほど重要ではありません。キャラクターが泣くという表現は、読者を泣かせるための1つの手段でしかなく、ほかの選択肢はたくさんあるのだ 。ゴードン・リッシュが言ったように、「ページ上の人物に何が起こるかではない。読者の心と体に何が起こるかが重要なのだ」。(書籍引用ここまで)
  • 映画「私の中のあなた」では、キャラクター全員が一回は涙する。それにより感動的になると思っているのだろう。あれだけみんなに泣かれると観客は引いてしまって暑苦しさを感じる。
  • たとえスリラーでキャラクターが恐怖を感じても、基本的に観客は恐怖を感じない(共感しない)。一方、ホラーではキャラクターと同様観客も恐怖を感じる。need to knowジャンルのキャラクターたち、 特に殺されるようなキャラクターたちは恐怖で顔を歪めるが、それが観客にまで波及する事は無い。観客の感情と物語のキャラクターの感情の違うのだ。殺されるキャラクターの恐怖の感情と観客は同調しないが、一方、観客は犯人は誰なのか、なにか陰謀があるのかという謎についての好奇心に意識が向かっている 。だから、たしかに「知りたい、知らなきゃならない」感覚が強い。ただ、例外敵にセブン_映画とかノーカントリーのやばすぎる敵役のときには、観客はneed to knowと同時に恐怖も感じ、Fear要素が出てくる。これはFearとNeed to know映画がどの感情を扱おうとしているかの差なので、スリラーが劣っているというわけではない。
  • それを書けば皆がそういう感情になる、とでも思っているようだ。そのような感情になるのは、引き込まれ、世界のなかに入り、感情移入したときだけである。飯を旨そうに食えば、旨そうに見えると思っているバカは、脚本が書けない。それは書いたうちに入らない。何かの羅列を押し付けているだけで、引き込むことをまるで考えていないのである。 ( http://oookaworks.seesaa.net/article/442122988.html#gsc.tab=0

  • では、「観客の感情を誘導する(感情移入させる)ため」、たとえば、観客を泣かせたいときに、キャラクターを泣かせるのが間違いなら、どうすれば良いのか?
    • その方法の一つが、「観客にキャラクターの感情を考えさせること」だと思う。キャラクターの感情をセリフやアクションや小道具で巧みに表現した映画リストが参考になる。キャラクターが直接自分の感情をセリフで述べるのではなく、感情を象徴するアクションで表現する。このアクションを見た観客はキャラクターの感情を考え、それがわかったとき、いたく感動(感情移入)するのではないか?と思う。
    • 言葉やセリフでそのキャラクターの感情や考えを表現されてしまった瞬間に(映画の方から「このキャラクターは今こんな気持ちですよ」と観客に親切に教えようとした瞬間に)、観客はキャラクターの感情を想像するスイッチを切ってしまい、そのセリフを文字通り受け取ってしまうのかもしれない。逆に、キャラが何も言わない場合は、彼らの感情を想像したくなってしまう。そして、キャラクターの感情が分かった瞬間、キャラクターと心がつながり、関与できたことに、いたく感動するのではないか?
  • このような技術の優れた例に気づくには、観客の感情と物語のキャラクターの感情の違いを意識し、キャラクターが泣いているのに、観客である自分は笑っているなど、観客とキャラクターの感情が異なっているシーンがないかどうかに敏感になるといいだろう。
  • (補足)上記の通り、両者の感情は異なるのだが、観客は明確にはその違いを認識しておらず時に混同するというのもおもしろい。

「すべての事情を知っているキャラクター」と「知らないキャラクター」がいる場合、 観客は事情を知っている人物に感情移入しやすい

キャラクターの感情に説得力がなくても観客と同じ感情であれば違和感は生じにくい

キャラクターの感情に説得力がなくても観客と同じ感情であれば違和感は生じにくい

  • 例えば、そのキャラクター(彼)の性質を考えると、「彼がこういう行動をするのはおかしい」とか、「彼があのキャラクターに感情移入するのはおかしい」という違和感が生じる場合がある。キャラクターの動機と行動に説得力がないというニュアンスだ。しかし、それが観客と同じ感情であれば、観客が望んでいることであれば、道徳的に正しそうであれば、観客は彼の一貫性に違和感を抱きにくい。逆に言えば、観客に強い共感をもたせることができれば、ある程度キャラクターの一貫性に外れた行動を取らせても違和感はないということ。
    • もちろん、観客の感情と物語のキャラクターの感情の違いはあるのだが、観客の感情と同じ感情をキャラクターが示せば違和感を感じにくいのは、観客は自分の感情とキャラクターの感情の違いを明確に認識しておらず、混同してしまうことがあり得るのだろう
    • 一方、観客が彼女に感情移入しないのに、主人公が感情移入しだすと、「いやあんた暗殺者でしょ?そんな共感しやすいタイプじゃないはずだよね?」と違和感を感じるだろう。つまり、観客は自分の感情と同じ感情を持つキャラクターには違和感を感じないが、観客である自分が感じていないエモーションをキャラクターが示すと違和感を持ちやすい。「いや、彼のキャラクターは一貫してない」と感じてしまう。

      違和感が生じるのは下手な「省略」が原因かもしれない

  • 多くの場合説得力がなくて違和感が生じるというケースは、キャラクターの動機が分からない、なぜそうするの?と観客が感じてしまうことが原因 である。これはキャラクターの動機をきちんと描けていない、つまり省略しすぎているというところに問題がある可能性がある。

具体例

映画「RRR」のストーリー構造(監督:S・S・ラージャマウリ)

はじめに

  • このブログはストーリーの構造や脚本・プロット等を分析して、「観客の私たちがなぜそのような感情になるか?」を考えようとするものです。ストーリー全体の構造を分析するよりも、私が気になった部分のみ分析していることが多いです。
  • 一般的な映画レビューとは少し着目している点が違いますのでご了承ください。たとえば、撮影や音楽、演技にはあまり触れません。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。タイトルとは別の映画のネタバレに触れることもあります。

RRR_主人公の二人が急速に友情を深めても、観客が違和感を抱かない理由

  • 少年を救出した後 → 二人の主人公が仲良くなるハイライトシーンの連続カット → 王女とお近づきになり、パーティーに誘われる → 宮廷でのナートゥダンスシーンでさらに二人の主人公は親睦を深め、絆は最高潮になる → しかし、この後正体が判明し亀裂が入るという流れになる。
    • ここで、注目したいのは「二人の主人公が仲良くなるハイライトの連続カット」である。
    • つまり友情が芽生えるキッカケの橋のシーンと、友情がピークに高まることを示すナートゥダンスシーンの両端のポイントだけ押さえその中間部分は連続カットで一気に省略している
    • https://www.youtube.com/watch?v=k157GjJHvK4 このシーン
  • 多くの物語時間を省略し、 一気に2人の距離を縮めたのにもかかわらず、そこに観客は違和感を持たなかったのはなぜかを考えたい。「関係性が深まるのが早すぎない?」と感じなかったのはなぜか?
  • 🔶 それは2人があまりに良い人物であることを観客は知っているから。特にビームは観客から好印象をもたれている。なのでその二人が友達になることに何の違和感もない。キャラクターの感情や行動に説得力がなくても観客と同じであれば違和感は生じにくい
  • 🔶 少年を救出する時、あれほど離れた距離であれほど大勢の人がいた中にもかかわらず、この二人は何かで繋がっているかのように、ジェスチャーだけで完全な意思の疎通を見せた。親友になるべくしてなったという感覚が観客にはあるので、過程を飛ばすことができる。
  • 🔶 観客は映画の宣伝を見ておそらく対立するだろうなということがだいたい分かっているから、一旦仲良くなってもその後に対立する予兆があるので納得できるのかもしれない
  • 🔶 だからといって二人の仲があまりにも深まりすぎて、「自分の使命よりも俺らの友情の方が大事」「 お前の為なら俺は使命を忘れて死ねる」というほど、極端にすると違和感が出てしまうが、そこまではしない 。この後の展開で、二人とも「やはり友情よりもお互いの使命をマットすることを選ぶ」という展開になるのがポイント。
    • つまり具体的には動物とともに、乗り込んだ主人公がもう少しで妹を奪還できるというところ、もう一人の主人公(ラーマ)がそれを一旦阻もうとする。しかしここで俺らの友情の方が使命より大事だと言って、ラーマが娘の救出に協力してしまっていたら、観客は違和感を抱いていたと思う。(でも 普通の映画だとそういう展開に乗ってクライマックスになってもおかしくないなんだけど)
    • いや君たちの友情はすごいものだけど、そこまで自分の使命を捨ててまで友情を優先するとご都合主義だろと感じていただろう。今までのシーンでは鉄の意志を持って、絶対に諦めない心を持っていたのに急に自分の使命を捨てる薄っぺらいキャラクターに感じてしまっていたはず。このようなご都合主義が見られないバランスを取っていたのもうまい。

RRR_なぜMCU作品とは違って大人こそ興奮するのか?

  • MCU作品は 子供や若い年齢層の人が特に興奮しているが、大人は少し冷めている印象がある。いや面白いし、うけるんだと思うけど、「今の僕の年齢とか大人になった精神状態で見ると、生涯ベストに入るような感動は得られない」みたいな批評がよくされる。 しかし本作はまさに大人にこそはまっている。多くの大人が年間ベスト、もしくは生涯ベスト級に感動している。MCU作品と本作の違いは何か?MCU作品は わかりやすく例として挙げただけで、違いを探りたいのは、MCUに代表されるようなスーパーヒーローものである。
  • ざっくりとした分類
  • 思うに、 大人になると、変身スーツをまとったり、スーパーパワーを持っているみたいな話には食指が動かなくなるのかもしれない。それよりも自分の肉体で敵に勝つと言うシンプルさしか受け入れられなくなっている。 なぜなら、現実の世界にはスーパーパワーや、変身すると言う解決策は無いからだ。 人生をいろいろ経験すると、たとえフィクションだとしても、それらの解決策があまりに馬鹿げて見えてしまうのかもしれない。
    • だから、 スーパーパワーを受け入れることができない。しかし自分が子供の頃に熱狂したものであればかろうじて受け入れられる 。シンウルトラマンとか、シン仮面ライダーを 見てキャッキャしているのは比較的大人ばかりであると思う。子供はほとんど反応していない。子供にとっては、今の過剰な装飾が施されたヒーローこそヒーローであり、シンウルトラマンは 現代のヒーローとしては少し地味すぎるのだろう。華がない。 一方大人は、自分たちが子供の頃好きだったもので、青春を感じ、ノスタルジックな気持ちになれるから、これらの映画を熱狂して見れるのであって、子供の頃と全くつながりのない新種のスーパーヒーローは受け入れることができないのだろう。
    • この点、 ミッション・インポッシブルやジェームズ・ボンド系の作品は、テクノロジーを使った最新武器みたいなものが出てくるが、基本的には自分の肉体で戦う、主人公の肉体が強靭だからこそ戦いに勝っているのである。 つまり生まれつきの スーパーパワーや、このスーツを着ると超人的な力を使えるようになる、みたいな設定が大人にとってはあまりに非現実的であるのだ。 大人は長年生きてきてすでに自分がスーパーパワーを持つギフテッドの存在ではないことを理解している。残された道は、ジェームズボンドのように もともとある自分の肉体を磨きあげると言う事しかできない。これだけが大人にとって非常にリアルな解決策だからこそ、彼らの心に響くのだろう。
    • ダークナイトを 中間的な作品として挙げたのは、ミッション・インポッシブルやジェームズボンドよりも、テクノロジーや機械を使った割合が多いからである。それにパッケージとしてもDCコミックス原作なので、 やはり子供向けの印象が強いが、MCU系よりは現実的な肉体戦の割合が多いので、中間とした。「ヒーロー誕生」拍手喝采的な輝かしいテーマではなくて、「自分が悪党として汚名を背負いながら街を救う」と言う皮肉なテーマを使っており、テーマ的には大人向けである。

RRR_何も知らないビームよりも、すべての事情を知っているラーマに観客は感情移入する

  • すべての事情を知っているキャラクターと知らないキャラクターがいると、 観客は事情を知っている人物に感情移入しやすい
  • 本作で言えば、ビームはラーマの偉大な志を知らない。 しかし観客は、その詳細は知らないが、ラーマは何らかの大きな目的がありイギリスの警察として働いており、 イギリス側に付いているわけではないことに気づいている。
  • その 状況で、ビームとラーマは王宮で対決する。ビームは兄貴のように慕っていたラーマが自分を逮捕しようとすることにショックを受け、動揺する。 この時、観客はどちらに感情移入しているだろうか?確かに兄貴に裏切られたということを思うと、ビームはかわいそうだなぁと感じる。しかし、彼はあまりにも無知すぎる。 ラーマは全てを知った上で、ビームを捕まえることを選んだのである。彼の葛藤の複雑さに比べたら、ビームはまだ葛藤が甘い気がする。観客としては あまりにも複雑な状況に置かれた、ラーマの心境を思いやり、彼に共感するのではないか。
  • この映画を 以下のような点でもラーマをビームよりも主人公として強調している。 物語の冒頭で少女がさらわれたシーケンスの後、最初に登場するのはビームではなくラーマである。彼が地方の警察署でインド人にひるまず容疑者を逮捕するシーケンスが描写される。 別の点で言うと、ビームがイギリスの女性からパーティーに誘われた際のダンスパートで、誰が最後まで踊り続けられるかと言う勝負があったが、そこでビームの意中の イギリス人女性がビームを応援している様子がラーマ目線のPOVで表現され、 ラーマは弟分のことを思い、わざとダンスに負けるふりをする。この例も、ラーマの方が常に情報量が多いことを示している。