映画見てるときの思考たれ流す

映画見ながら考えたことをたれ流します

映画『ラッキーナンバー7』のストーリー構造(監督:ポール・マクギガン)

  • ラッキーナンバー7』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

巻き込まれていた主人公が実は首謀者だったとラストに判明するが、そうなると主人公の決断や成長がすべて「フリ」「演技」に見えてしまう

  • 本作を「主人公が実はすべてを知る首謀者なのだけど、何も知らない一般人が巻き込まれるふりをする」というストーリー構造である。このような構造にしてしまうと、巻き込まれパートで行ってきた主人公の決断や成長、アクションすべてが「演技」していたことになる。つまり、物語として薄っぺらに思えてしまうのだ。やはり、こういう「最後に種明かしをする系の軌道」の場合であっても、主人公は首謀者に含めず、「無知な巻き込まれる一般人」の役割の方がいいと思う
    • 本作では、最後の20分位で全ての種明かしがされ、主人公はすべてを知って行動していたことがわかる。ここで観客は主人公が緻密な計画を立て、復讐者になる決断をしたことが分かるのだが、彼がフリをしていない時間、本当の意味で決断を見せる時間はたったの20分しかないのだ 。(主人公がフリをしない)王道の物語は2時間丸々決断の物語で観客はそこに感情移入できるけど、本作のように冒頭からの1.5時間は全部主人公は知らないふりをしてただけで実は全部知ってました、という風になると、じゃあ最初の1.5時間の主人公の決断の濃度はかなり薄い(全く意味を持たないとは言わないがかなり薄くなる)と観客は判断せざるを得ないと思う。
  • 主人公は周りの策略に騙される側にいるべきで、カオスに翻弄されながらも誠実に向き合う、リアクションする側にいるべきだと思う。そうするからこそ彼の映画2時間分のアクションに意味がもたらされて、観客も彼に共感することができるのだと思う。
    • 例えば、フィンチャーの『ゲーム』のように、周りは全部知っていて演技をしているんだけど、主人公は何も知らず騙され、それに必死になって対応し真摯に決断するというのが理想。

映画『バーバリアン』のストーリー構造(監督:ザック・クレッガー)

  • 『バーバリアン』(原題:Barbarian)のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

タイムジャンプが明けると、主人公は怪しい男と急速に距離を縮め、危険度が跳ね上がっている

  • (プロット)物語序盤、主人公は同居人の男(キース)を怪しんでいる。彼から出された紅茶は飲まないし、置いてあった財布のなかから、こっそり免許証を確認する。 そして主人公がシャワーから出ると、男はまだ開けてないワインを持って主人公のことを待っていた。疑われると思ったから開けずに待っていたと言う。主人公は警戒し、ワインを断る。しかし、男と主人公は仕事の話で盛り上がる。たまたま、その男が主人公の仕事に関連している人物だったのだ。
    • 観客はでき過ぎた偶然なので、おそらく男は主人公がシャワーを浴びている間に彼女のことを調べ上げ、偶然を装っているのではないかと警戒する。
  • (プロット)仕事の話で盛り上がっているところで、カットが入り、わずかにタイムジャンプする。時間にして一時間にも満たないかもしれないが、タイムジャンプが明けると、いつのまにか主人公は怪しい男の隣に座り、元彼の愚痴を話している(話題も仕事からよりプライベートになっている)。 物理的にも精神的にも距離が近づいている。そして、気づいたら主人公はワイングラスを手に持っている。 世間話をして心を許しただけではなく、さらにワインまで口にしてしまっているという危険な状態に。
    • (ポイント)あえて「ワインを飲み始めたシーン」を描かないことで、観客がタイムジャンプ明けに主人公を見ると、彼女は「警戒心を解く」「食べ物を口にする」という2段階上の危険度にステップアップしてしまっている。観客は焦る、カットが入った一瞬で危険度が高まってしまった
    • 普通の映画だったら「怪しいワインを初めて口にしてしまう」と言うシーンを描写するように思うが、あえてこれを省略し、タイムジャンプして「すでにワインを当たり前に飲んでいるところ」を描いている。
  • 同じような作劇については、タイムジャンプした後、キャラクターの「最初の行動」に観客は注目する。ジャンプ前と違う行動をしていれば「変化・忘却・諦め」を強調できる を参照。

同居人の男がモンスターに殺されたところで、初登場の男AJに場面転換するクリフハンガー。観客は「主人公はどうなった?」と不安になる

  • (プロット)同居人の男の「助けて」という声が 聞こえ、主人公は恐る恐る地下室に入っていく。すると男と合流するが後からモンスターが現れ男を殺す。ここで、初登場の男AJに場面転換する。観客は「 この男は誰だ?何の関係がある?主人公はどうなっちゃったの?」と不安になる(クリフハンガー)。
    • (ポイント)しかもここから、AJパートがかなり長く続く。 あんなにホラー的な展開だったのとはうってかわり、彼のパートでは、彼がセクハラの容疑で監督を降ろされ、お金を作るために家を売却しようとするところが長々と描写される。 観客からすると、主人公たちの物語の路線とは全く関係のない彼の話が長時間続くので、一体どうつながってくるんだと全く先の読めない展開に翻弄される。

「何年前」というテロップを使わずに周りの風景やラジオを通してフラッシュバックしたことを観客に示す

  • (ポイント)1:06時点。 急にフラッシュバックするが、 フラッシュバックしたことを示す方法がうまい。周りの風景が荒れ果てておらず平和そうであるという環境の違いと、男が車に乗ったときに流れてくるラジオがレーガン政権のことを述べているので観客がフラッシュバックしたことを認識できる。
  • 物語の舞台であるデトロイトが、回想時点では 平和で素敵な街並みだったが、現在は荒れ果てているという、「環境の変化」があるからこそできた手法

モンスターの誕生の経緯を描くフラッシュバックは誰の記憶でもなく、物語の解説として機能している

  • フラッシュバックとは「🔶 語り手の記憶」もしくは「🔶 語りを聞いたキャラクターの頭の中の想像(具現化)」が映像化されたもの、もしくは物語の中のキャラクターに全く関係なく「🔶 全知全能の語り手による物語の解説」として挿入されたの3通りの解釈が可能である。
  • 本作の「モンスターの誕生の経緯を描くフラッシュバック」は上記の「🔶 全知全能の語り手による物語の解説」に当たる。このフラッシュバックは誰の記憶でもなく、物語の解説としてのフラッシュバック。モンスターたちがどのようにしてあの家に住み着いたか。どういう目的があるのかというのを 誰かの記憶のイメージとして描写するのではなく、観客に対する解説として描写している。

映画『スティルウォーター』のストーリー構造(監督:トーマス・マッカーシー)

  • 『スティルウォーター』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』と非常に近いプロット

  • ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結とかなり軌道が近い。特に2/3時点くらいまではほぼ同じ。以下、スーサイドとスティルウォーターについて比較してみる。
  • 主人公は父親として娘と良い関係が築けていない。
    • スーサイド:面会室で「Fワード」で罵り合う場面が象徴的。
    • スティルウォーター:娘の育ての親はおばあちゃんであり、育児にはほとんど関わっていなかった。娘の手紙にも「父はあのとおりで信用できません」という言葉が書かれている。
  • 娘を救うことを決意する。
    • スーサイド:政府高官のウォラーに娘を人質に取られ、娘を救うため極秘ミッションにリーダーとして参加。
    • スティルウォーター:ルパルク弁護士が協力してくれないため、娘の無実を証明するため独自で調査に乗り出す。
  • その過程で少女と出会う。彼女は主人公に娘の存在を思い起こさせる。
    • スーサイド:チームメンバーとしてラットキャッチャー2と出会う。
    • スティルウォーター:ホテルの隣の部屋に宿泊していた少女マヤと出会う。
  • 両作品とも少女には父親がいない。
    • スーサイド:ラットキャッチャーの父は亡くなっている
    • スティルウォーター:少女の両親は離婚していて、母親と暮らしています。最近は会っていないとも語られる。
  • 次第に少女と良い関係を築いていく。まるで父親のような関係性。
    • スーサイド:車内でそれぞれの過去を明かし「生きて帰す」ことをお互いに誓い合う
    • スティルウォーター:少女の面倒を見るようになったり、一緒に家を修理したりします。
  • そして娘を救うための最後の戦いに向かっていくのだが、ここから両作品に違いが現れる。
    • スーサイド:ラットキャッチャー2やチームの仲間と協力してヒトデ型モンスターとの戦いに挑む。この戦いで少女の存在は主人公の目標(モンスターを倒すこと、娘を開放すること)を達成するための力になっている。ラットキャッチャー2は劣勢だった戦況をひっくり返す。ラストシーン、帰還する飛行機の中で主人公はネズミを恐る恐る撫でる。これによりねずみを克服しました。これが何を意味するか、ネズミは暗殺者として育てられた少年時代の象徴であり、この暗殺者としての自己認識により主人公は他人と良い関係を築くことができないと、自身を縛り付けていました。映画には直接描写されていませんが、この呪縛から解かれたということは、主人公はこの後娘と親子の関係性を築くことができるはずだ、というポジティブな期待を抱かせ、物語は終わります。
    • スティルウォーター:少女マヤやその母親ヴィルジニーの支えのおかげで主人公は異国かつ危険な街で捜査を進めていくことができていた。しかし、主人公は犯人を逃してしまい、娘に嘘を付いていたこともバレてしまう。そして物語は一気に4ヶ月飛びます。ここからヴィルジニーとマヤのいる環境は主人公の目標達成を助けると言うより、目標達成から遠ざけるような甘い誘惑としても機能しはじめる。マヤは主人公にとても懐き、ヴィルジニーともどんどん距離が縮まっていく。少女たちの存在をポジティブな力に変えるのではなく、主人公は依存してしまう。依存してしまった主人公には2つの選択のどちらかを選ばなくはならない。このまま当初の目標を諦めて目の前の幸せを掴むか、もう一度当初の目標を思い出し実現するために、目の前の幸せを放棄するか。本作では後者を選んだが、娘の冤罪を晴らすことができてよかったとスッキリとしたハッピーエンドで終わるのではなく、実は娘が依頼したことが発端となっていたという非常にグレーな終わり方をします。
  • (補足)この疑似家族観(親と娘の擬似的関係)はウィンドリバー_映画にも共通する

4ヶ月のタイムジャンプにより、主人公は娘を救えたのか、諦めたのかというサスペンスが発生する

  • (プロット)主人公は刑務所にいる娘の冤罪を晴らそうとしている。娘は海外の刑務所にいるため、主人公も言葉の通じない海外に行き、運良く通訳をしてくれる女性を見つけ、彼女と協力し冤罪を晴らそうとしている。しかし主人公は真犯人をあと一歩で逃してしまい、娘からの信頼を完全になくしてしまう。そして、この事件の後、一気に4ヶ月のタイムジャンプが入る(58分)。
  • (ポイント)テロップで時間が経過したことが分かると、観客は「え、どうなったんだ?」とサスペンスが生じる。無事捕まえることができたのか、まだ捕まえようとしているのか、諦めてしまったのか。そして、このタイムジャンプ明けに観客が最初に目撃するのは「主人公が通訳をしてくれている家族と仲良く過ごす姿」である。観客はここで落胆する。もしや主人公は娘を救うことを諦めてしまったのではないか、と。違うだろお前の家族は彼らじゃない。逃げるな頑張れ、と主人公に落胆する。

映画『フォックスキャッチャー』のストーリー構造(監督:ベネット・ミラー)

  • フォックスキャッチャー』のストーリー構造を分析したいと思います。ストーリー全体の分析ではなく、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

観客に時間の経過を悟らせずに一気に時間を進めることで、観客は主人公の変貌ぶりに驚愕する

  • (プロット)主人公はこれまでレスリングに集中するし、酒も断ってきた。しかしオーナーであるジョンにコカインをやるように言われ、恐る恐る手を出す。その後愛国者の資金パーティーのシーケンスが始まり、次のシーンでは兄視点に切り替わる。兄は主人公に電話をし、「調子はどうだ。」と尋ねる。「今は練習を休んでいる」と言う弟。何かがおかしいと兄は勘付く。 次のカットで弟の視点に切り替わり、観客は衝撃を受ける。酒と薬をやって、髪も染めている。1:04時点

  • 観客はタイムジャンプ(物語の中の時間が大きく経過)していることに気づいていなかったので、主人公の変わり果てた姿を見て衝撃を受けるこの作劇術の肝は、 主人公の変貌ぶりを隠すために、一旦兄に視点を切り替えたという点である。この視点を変えると言うやり方を使えば、通常、タイムジャンプするときには「Xヶ月後」と言うテロップが入るが、このテロップを省略することができ、観客はタイムジャンプしたと言う認識のないまま、一気に変わり果てた主人公の姿を提示され驚く。

映画『ヒットマンズ・レクイエム』のストーリー構造(監督:マーティン・マクドナー)

  • ヒットマンズ・レクイエム』において、ストーリー構造が観客にどう作用しているのかを分析したいと思います。
  • ストーリー全体の構造を分析するよりも、私が気になった部分のみ分析しています。
  • また、読者の皆さんが映画を見ている前提で書いていますので、ネタバレがいやな方はお気をつけください。

終盤までケンの方が「主人公」にふさわしく見える(ケンの物語のように見える)

  • 物語の大部分の時間、ケンの方がすべての事情を知っているため、その葛藤の複雑さに観客は感情移入しやすい。性格・道徳性的にもケンの方が主人公よりも優れている。
  • これにより、終盤のラスト20分くらいまでは主人公以上にサブキャラクターが主人公然としすぎている。そこまではケンがほぼほぼ主人公のように感じられた。
  • 以下、ケンがいかに主人公らしく見えるかについて、プロットを抜き出してみる。
  • 冒頭の観光シーン、主人公は好かれるような性格をしていない。ずっと文句を言っている。この時点で「どちらかと言えば」ケンに観客は共感する。
    • どちらかと言えば、というのは実は重要である。観客はケンに「完全に」感情移入した状態にはならないようにうまく設計されているように思う。なぜ完全に感情移入しないかと言うと、それほどケンは見た目が愛らしいキャラクターではないから
    • もし二人の性格はそのままで、主人公とケンの容姿が反対だったら、観客はケンにもっと感情移入してしまい、映画としてうまくいかなかったと思う。ケンが主人公よりも年上のおっさんで少しハゲヅラにしているところに工夫がある(ハゲが見えるようなカットがいくつかある)。この工夫がなければ、下手すると主人公よりもサブキャラクターに感情移入してしまう映画になってしまうところだった。
  • 主人公はデートの準備をしていると、ケンは「男前だぞ」と自信をつけさせようとしている。
    • ケンはまるで父親のように主人公を気にかけている。このシーンの直前では、主人公が泣きながら少年殺しの罪について話すシーンがあり、ここでも懸命に主人公を励ましていた。
  • ケンはボスに主人公を殺すよう命じられるが、主人公が自殺しようとしているのを目撃し、彼の自殺を阻止する。
    • このシーンで、主人公が 自殺しようとするほど追い込まれていたことを観客は知り、やっと主人公に感情移入し始めるが、この後ケンは主人公のために自分の命を危険にさらす行動に出るので、 いくら主人公が葛藤していても、その主人公のために命をなげうとうとしているケンの方に観客は共感する。
  • 主人公が列車に乗せて逃がした後、ケンはボスに連絡をし、主人公は逃げた私を殺しに来いと挑発する。
  • ケンとボスの決着。ケンは抵抗しない。銃を渡して、ボスに殺されるのを待つのみ。ボスはふざけるなと怒る。
    • ボス、あんたには感謝してる。でもあいつを助けたかった。
  • このように、映画のほとんどの時間ケンが良いヤツ過ぎて、観客はケンの方が好きになる。完全に主人公の印象。

終盤になってやっと主人公が機能的にも主人公になる

  • 死にたがっていた主人公は、皮肉にもケンの死を目の当たりにして、 ケンが命を賭してまで自分を助けようとしてくれたことで、生きるという決断をする。
  • 生きるために、必死にボスから逃げる主人公
    • ボスとケンとの決着の場面で、もしもケンがボスを倒していたら、 主人公が本当の意味で生まれ変わることができなかった。やっぱり最後は主人公が戦うべきなのだ。
  • 極端に言えば、 主人公は「最後の戦い」の前までは、クズで情けない、共感できない人物であっても良い 。最後の戦いまでは、 サブキャラクターが葛藤して、彼らが物語の主人公然としていても良い。しかし、最期の決戦だけは主人公がメインになるべきだ。 この主人公の最後の決戦で、サブキャラクターたちの葛藤や苦悩も全て昇華できさえすれば、主人公がやはり真の主人公であると言う印象になる。

映画「コーダ あいのうた」のストーリー構造(監督:シアン・ヘダー)

全体的にコメディ調にして、暗くならないようにしている

10代向けの恋愛映画並に甘ったるい

  • 彼を家へ呼び練習するシーン。彼は 中学3年の頃街で主人公のことをよく見かけ、両親の代わりに大人と対等に話をする主人公のことをかっこいいと思っていたと打ち明ける。
    • 「実は彼も私のことが気になってた」みたいな展開はよくある10代向けの恋愛ものっぽい。全体的に10代向けの恋愛映画感が強いが、本作は大人向けの作品として宣伝され?、アカデミー賞作品賞まで取っている。本作は若い人よりも圧倒的に大人の人たちが見に行ったと思うけど、皆さんは感動できたのだろうか?個人的には若すぎて甘すぎると思った。
    • 中合わせで歌うシーンなんてまさに10代向けの映画のように甘酸っぱい青春感。課題曲をラブソングにしてるのもちょっと甘すぎる。
  • 彼と森へ行き、水に飛び込む下りも甘い
  • 最後の受験の展開も現実感を無視して、感動的に仕上げようとしている製作の作為が伝わってくる気がした。
    • 楽譜を忘れてアカペラで歌わされそうになるが、先生が伴奏する下りがあるが、これいる?普通に他の受験生より本領発揮しやすいから、ずるいでしょ。

自分は弱点だと思っている点が長所になる

  • 個人的にこの映画に感情移入できていなかったので、このシーンで感動することができなかったが、自分の欠点だと思っていたものが長所に変わると言うシーンは一般的にいうと良いシーンだと思う。
  • 先生に音大をすすめられた主人公は最初経済的に無理だと断るが、歌う時はどんな気持ちだと言われ、うまく説明できないが、手話だと伝えられる。== 今まで手話で育ってきたから、手話の方が言葉が巧みなんだね。手話こそが彼女のメインのコミニケーションで、それが家以外の公の場で初めて役に立つ

映画「死霊館エンフィールド事件」のストーリー構造(監督:ジェームズ・ワン)

恐怖を感じない霊能者に視点を設定すると観客も怖くない

  • 演出:観客に特定の感情を体験させるのに最も適切な視点
  • 観客にある感情を抱かせたいのなら、その感情を一番表現できるキャラクターの視点で描写すべきなのだ。決して、その感情が欠落したキャラクターを視点に設定してはいけない。
  • ホラーは「視点に設定された人」が恐怖をもっとも強く感じる人でなければ、その恐怖が観客には伝わらないのだ。だからこそ、ホラーのシリーズモノというのは、恐怖に陥れる存在(フレディーや貞子など)はシリーズに共通しているが、怖がる人間は毎回違う人物に設定される 。 これは一度恐怖を経験した人間よりも、初めて経験する人間の方がその感情を強く抱くからである。
  • 死霊館シリーズでは、恐怖を感じにくい霊能者のウォーレン夫妻を共通したキャラクターにする。 しかし、霊能者の彼らを視点に設定してしまうと、霊能者が怖がらないのと同様、観客も怖くなくなってしまう。 上記原則に反するのだ。霊に対処するのが日常になっている霊能者を主人公にすると、彼らがいかに霊現象を解決するかというアクション映画になってしまい、ホラーではなくなってしまう。
  • 「恐怖を感じにくい霊能者」が主人公の死霊館シリーズでも、 観客に恐怖を感じてもらうために制作陣が取った対応は、呪われてしまう被害者の一般家族をあたかも主人公のように扱い、彼らに視点を設定するということだ。この視点は冒頭から1時間近く続き、恐怖を最も表現出来る彼らの視点で物語を体験することで、観客も恐怖を存分に感じることができる。
  • 参考三宅隆太さんポッドキャストhttps://open.spotify.com/episode/6i91hcuyyoGxW6CMnxzDEf?si=a0239bfab7e14131
  • 同じ作劇方法の例)ザ・スーサイド・スクワッド_恐怖という感情が欠落したキャラクターを視点にすると、観客に恐怖は伝わらない

霊能者夫婦が被害者を助ける動機を設定する

  • 霊能者夫婦が被害者を助ける動機を設定しないと都合の良い展開となってしまう。レスキュー系の公務員系の仕事であれば、それは仕事だから、特に動機は必要ない。依頼されたらやらなければならないのである。
  • しかし本作の霊能者は主人公たちに断わる権利があるのだ。特に本作では、主人公の霊能者の妻はこれ以上悪魔払いをすることをやめようと決断している。それは娘に危険が迫っており、夫が殺される予知夢を見たからである。だから妻はもう悪魔祓いの依頼は受けないと夫に約束させている。 それでも夫妻に悪魔祓いをさせるというストーリーにするのなら、その助ける動機をきちんと設定する必要がある。本作ではその動機として、「共感や同情」と「被害者家族との絆」を設定する。
  • 夫は被害者家族を見捨てることはできないと、 調査だけをして危険であれば教会に引き渡し、自分たちが悪魔払いをする事はないと妻に誓って調査に向かう。そこで、妻は被害者の少女に感情移入する。そして、大切な存在を失いたくないという被害者家族の気持ちに共感する。
  • また、夫は 被害者家族に元気になってもらうために、Elvis Presleyを弾き語りで演奏する。そして彼の弾き語りを聴きながら被害者家族はみんなで歌い、かつてのような一家団欒を一時的に取り戻す(いわゆる「焚き火を囲み結束を深めるシーン」)。ここで被害者家族と夫妻に絆が生まれる。
  • 妻は依頼は受けないという判断を覆し、助けてあげたいと夫に伝える。このようにうまく被害者家族を助ける動機が設定されている。

なぜ悪魔祓いを拒んでいた主人公夫妻が短い時間しか接していない被害者家族のために翻意しても観客は違和感を感じないのか

  • 上記の通り、 主人公夫妻は自分たちにも悪魔払いをすることの危険性が及んでいるため、これ以上の悪魔払いの実行は避けようと約束する。この約束にも関わらず、主人公夫妻は 被害者家族とのごく短いエピソードでこの約束を翻して、悪魔祓いをすることに決める。冷静に考えると主人公夫妻の行動や一貫性はおかしいのだが、なぜ観客は疑問を持たないで済むのか?
  • それはキャラクターの感情や行動に説得力がなくても観客と同じであれば違和感は生じにくいという法則を使っているからだと思う。つまり、被害者の少女とその家族が非常に危険であり、悪魔に対して無力であり、このままではまずいことになるという状況を観客は目撃している。そして観客は彼らが一刻も早く救われるように祈っているのだ。そこで主人公夫妻が登場し、主人公夫妻があまりに簡単に被害者家族に感情移入するのが客観的に考えるとおかしかったとしても、観客は自分たちの「助けたい」という気持ちと同様に、夫妻が「助けたい」と感じることに違和感が生まれないのだ。